小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

オリンピックは誰のために開かれるか

2021年07月12日 | エッセイ・コラム

無観客でもオリンピックをはじめようとしている。国民の多くは止めた方がいい、その方がコロナ禍が続くなかだんぜん安全策だと考えている、もちろん私もそうだ。いま政府は、開催の根拠を示すことなく、まして是非の検証すらも省き、闇雲に実施することだけに意味を見出している。

かつての蒙昧の象徴のような日本の親父が、そこに居座っている。己の頑固さを恥じ入るなんて考えにも及ばない。この七十の爺がそう思うくらいに、なんか高飛車で理不尽な振舞いを続ける愚鈍な男たち・・。

開催することに意義があるというより、開催することの利害関係、国際的な力関係のバランスを慮っているのだろうか。事業としてのオリンピック、それをやり遂げることの政治的パフォーマンスに価値をおいているんだろう。開催することで発生する経済的損失に誰もがふれない。政府の失策による赤字は、私たちの血税で支払われるものと決まっている。かつての戦争もそうだったし、「失敗の本質」はオリンピックにおいても健在である。

 

 

東京発のあらたなパンデミックは起こらない。無観客にすることで、オリンピックは必ずや実現できる。そんな目算は、AIによって担保されたのか知らない。でも、万が一を想定しないのは、ガースーはじめ選りすぐりの政府ブレーンたちが、幻想にちかい確信か、人生を賭けるような勝負に挑むのだと自らを鼓舞しているような気がする。

まあいい。しかし、無観客でも開催するというが、スタジアムで競技する選手たちは満足できるのだろうか。というより、観客の応援、拍手があってこそ、持てる力を発揮する選手はいるんじゃないのか。

特に、陸上選手の幅跳び、高跳び、棒高跳び、三段跳びなどの選手たちは、全員ではないが観客の拍手を求め、その声援のある盛り上がりのなかでスタートしてゆく。観客と一体感を感じながら、自分の目標や記録を超える。そんな悦びがあるとしたら、神からの祝福に近いものとしか言いようがない。

何万人がひしめく競技場のなかで、ごく一部の観客の拍手でしかなくとも、それが一定のリズムの音が奏でる勇気凛凛のファンファーレだ。選手はこれまでの訓練の労苦を昇華させ、家族や恋人・友人たちの声援を心のなかの触媒として、全身の筋肉と神経にエネルギーを爆発的にそそぐのだ。

それが世界新記録なのか、五輪新なのか、国内新記録あるいは自己新記録かどうかどうでもいい。

言いたいのは、観客がいる熱量、声援、そうした雰囲気があってこそ、従来の記録、自分自身を超える選手たちが存在することだ。そんなのは他力本願だから、無観客のなかでも自分の力を発揮し、純粋独力で記録を出したい選手がいるだろう。しかし、そんな選手にしても、無観客のなかで競技することは異常なことと思うはずだ。心の底では、やっと自分の理想といえる環境のなかで、本来の自分の力を発揮できるとほくそ笑んでいるかもしれないが・・。

 

(写真はすべて、フリー素材から)

参加することに意義がある。確か、オリンピックの創始者クーベルタン男爵は、そんなことを言っていた。もちろん競技する選手、関係者は大会に参加するし、観客だって参加していることは間違いない。その観客さえも排除した東京オリンピックの開催とは・・あの麻生財務大臣でさえ「東京オリンピックは呪われているんじゃないか」と嘆いたという。そう思って開催させるんだから、このご仁もそうとうに呪われている。

嗚呼、日本はいつまで地の闇を徘徊し、輪廻のごとく失敗を繰りかえすのだろうか。

 


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