小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ルッキズムと人種差別(続き)

2021年06月21日 | エッセイ・コラム

前回記事の続き。映画について書きすぎて、本題に入ることができなかった。耄碌すると抑制がきかなくなる、残念至極。

「ルッキズム」という言葉を最近、新聞を読んで知る。「見た目で人を差別する」という意味ぐらいか、英語でLookism。「外見至上主義者」ならLookistか・・。

容姿や身体的特徴などを揶揄ったり、侮辱する人なんて今どきいるのかと思うが、それがいるらしい。記事のリード文に、「五輪関係者が女性タレントの容姿を侮辱するような発言をしたことで、あらためて注目されるようになった」とあった。世情に疎い愚生はそんなこと知らなかったし、一昔前の時代に逆行したような感じだ。

「人を見た目で判断してはならない」ということは、物心がつく頃から親や学校で叩き込まれた。そんな教訓は昔からあったんだろうが、バブルで日本に勢いがあった頃、「美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに」なんていう簡単カメラのCMコピーが話題になった。言葉は悪いが不細工な人,、いや、容貌に自信のない人に向けて、「自分を磨く努力すれば、それなりに美しくなりますよ」ぐらいの応援メッセージを言外に匂わせていた、ということにしておこうか・・。

人の外見を比較するような広告がまかり通ったのは、日本だけじゃないと思うが、これは実のところ、美醜の差異で人を差別する構造を孕んでいて、たいへん無神経なことこの上ない。笑いに落とし込むオチがあったのは、演じた故樹木希林の何事にも動じないキャラクターによるところが大きかった。

 

さて、「ルッキズム」の起源は、新聞によると1970年代のアメリカとある。肥満の人は、自己コントロールできない人間として一方的に決めつけ、かつ侮蔑したという風聞は、確かに伝わって来て記憶に残っている。

当時のアメリカの流行、文化の動きに敏感な人は早速、肥満でもないのに自らの改善点をみつけ、食事制限とかワークアウト・ヨガなどに励んだのではないか。それとは反対に身体よりも精神面の強さに関心をもつ人たちもいた。自身の内面的な課題を見つけて、その頃から注目されはじめた「自己開発セミナー」の類に通う。日本人はことほど左様にアメリカの動向に注目し、トレンド、ムーブメントを移植したのだ。

「ルッキズム」が浸透し、国民レベルで習慣化しているのがお隣の韓国。プチ整形なるものが若い女性では一般化しているらしい。実際のところは詳しく知らないが、新聞の記事中に舞踏家の土方巽が「感受性や美意識には階級があると喝破した」とあるように、「ルッキズム」は人間の本性に根づいたものかも知らん。

しかし、問題はこれからで、前述したごとく美醜の差異によって人の差別意識を喚起し、社会的な構造意識へと発展する。典型的なのがアメリカの黒人差別問題だ。白色は上等で黒色は下等だなんて格差はない。にもかかわらずアメリカはいまだに黒人差別が存在するのは、いまだに白人至上主義なるものが幅を利かせているからだ。それはアメリカ建国からの宿痾というべき精神風土であり、また黒人を奴隷として働かせてきた文化的風土も作用している。

白人至上主義といっても、白人社会の上位にあるWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)だけとは限らない。が、彼らの影響力は甚大である。彼らはいわゆるアメリカ建国時に早期に移民してきたイギリス系の白人たち。彼らは本国で主流の国教派(プロテスタント系)差別を受けて、アメリカに移住してきたピューリタン(これもプロテスタント系)である。そのほか、バプテスト、クエーカーなど様々な宗派もいて、その集団同士が土地や資源の争奪をはかるために、お互いを差別しあうという体験をしてきた。

つまり同じキリスト信者でも、他の集団には不寛容だったという歴史がある。しかし、ロジャー・ウィリアムズらの先駆者によって、寛容の哲学・精神を育み、民主主義への道筋をつけて、白人移民たちはイギリスから独立した(この頃には、スウェーデン、ドイツ系移民らも入植)。森本あんりの『不寛容論』には、こうした経緯が明快に書かれていてたいへん勉強になった。

 

また、キリスト教プロテスタント信者の特長として、聖書を読んで己が信じたこと、啓示をうけたことを教義にして新たな宗派を起ち上げることができたという。現在でもそれは受け継がれ、メガチャーチといってアメリカには白人牧師を宗祖とする約700ものキリスト教団体があり、それぞれ平均10000人以上の信者がいるという。彼らが保守的な白人至上主義者なのか、リベラルで開放的な人たちなのか詳しくは分からない。

余談になるが、「20世紀初頭、日系、中国系などアジア系への脅威論(黄禍論)が盛んだったが、一方でアイルランド系や東欧系、南欧系の白人たちは必ずしも『白人』とはみなされていなかった」と、渡辺靖は『白人ナショナリズム』に書いている。ある歴史学者の著書『アイルランド系はいかにして白人になったか』の中でアイルランド系は社会進出に加え、黒人差別に加担することで『白人』としての地歩を固めたと論じているという。確かに米北部の警察にはアイルランド系が多くを占めているときく。収入の良さだけではない、社会的にもその仕事ぶりが目立つポジションにあり、黒人への圧力は過度なものがあったろう。

 

ともかく南アフリカのアパルトヘイトが崩壊したにもかかわらず、キリスト教の名のもとに黒人を奴隷にした文化風土や差別主義がいまだにアメリカ南部に根強いというのも、なんかアナクロの話だが・・。映画『グリーンブック』で舞台になったアメリカ南部のディープサウス(サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの各州が代表的)では、いまだに白人と黒人が住む地区が別れているという。

先の大統領選挙で不正選挙が取り沙汰されたが、それより以前、公民権運動で黒人の権利は保障されるようになったとはいえ、黒人居住地区には投票所を置かない南部の州は多かった。白人地区に近い場所に投票所をつくり、黒人が投票しに来るのを邪魔したとさえ言われる。もちろん、南部の多くの白人は共和党、黒人は民主党を支持していた。

アメリカは「自由と民主主義」を謳いながら、人種差別や性差別、LGBTなどマイノリティへの差別が引きも切らない。筆者としては、WASPの白人層を中心に、有色人種に対する強い偏見と差別主義が陰湿にはびこっていると断じて憚らない。彼らのそんな性向は屈折したキリスト教プロテスタンティズムに基づく思考、というより偏見、無理解だろう。これはステレオタイプとしてまさしく定着し、柔軟性を欠くものとなった。

さらに、これらの思い込みが、ある時に自己の心性のなかで不都合が生じると、次なるメガチャーチに入り込んだり、習慣が異なりマインドリセットできるタイプのいる他州に移住する。つまり、差別意識を温存したまま別の土地にエスケープすることも可能となる。一つの州が一国ほどの広さと包容力をもっている。その意味では素晴らしい国だ。

最後になるが、アメリカに住む人のほとんどが移民である。戦前はその出自によって、住む場所における、州(ステート)の定型があったり地域の傾向がはっきりしていた。それがアメリカの産業構造の変化や多くの新興移民の流入により、定住地がかなり変化している。住環境によって個人のアイデンティティもまた影響を受けるだろう。社会学の本を読むと「ブラック」という言葉は、白人による非白人人種への蔑称として長いあいだ使われてきたとある。

つまり「ブラックパワー」とか「ブラック・イズ・ビューティフル」、「ブラック・ライヴズ・マター」などアフリカ系黒人たちのアイデンティティの確立に寄与するが、白人への抗議運動の呼称として使用するには、その齟齬を埋められないし、効果としても弱いという論議があった(タリク・ムドゥード)。

コロナ禍にあって、アジア人への差別がクローズアップされたが、その多くが黒人による暴力事件だった。人種の坩堝と言われるアメリカにおいて、人種に対する偏見、差別は、さらに複雑になり過度になってゆくと予測できる。それを政治・社会制度的にどのような解決への道筋を為政者(&バックアップするブレイン)が立てるのか、しっかりと見守っていくしかない。


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