小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

凡夫の思想

2005年12月11日 | エッセイ・コラム

 凡夫とは一般的には普通の人或いは凡人という意味であるが、
 正確には仏教用語で「煩悩に束縛されて迷っている人」とされている。ある宗教学者は「自己中心的発想から逃れられない、自分の欲望のままに生きている人」と言っている。
 私を含めてほとんど人が凡夫である。いや、自分は凡夫でないという方も大勢いらっしゃるであろう。たぶんそう言う方は凡夫ではないのであろう。

 さて、凡夫には階層があるのだろうか。微妙な差異はあるのだろうか。
 具体的にいうと、例の耐震構造疑惑で問題になっている関係者の皆さんは、ある宗教学者の定義からいえば、自己中心的で欲望のままに生きているという点で、間違いなく凡夫だろう。
 すなわち、凡夫は自分の欲望を満たすためには手段を選ばず、法規制を無視し、他人に被害を及ぼすことも厭わない人間であった。
 言い方をかえれば、自己保身と自己配慮を徹底させるために、他者の存在を利用したともいえる。
 利用などとんでもない言いがかり、「ギブ&テイク」が自己と他者の基本関係という見方もある。これはどこかの立派な社長の生き様に似ていなくもない。哲学で言うところの主と奴隷の命題に近いものがある。
 私はもちろん凡夫であるが、彼らのような才覚もないし、資産もない。
 そのことが階層を生むのだろうか。それが現実的な差異なのだろうか。私には分からない。まして仏教の教義の本質など知る由もない。
 ただ、仏教の教えの中に、「何のために生れてきたのか」を執拗に問うものがあることを知っている。

 たとえば、宮沢賢治は「人の役に立つために生れてきたのだ」と、強迫観念のように思い、夜空に瞬く星のような童話と詩を残して、短い生涯を全うした。人の役に立つとは、つまり「他者への配慮」であり、この観念を普遍化すれば、少なくとも「勝ち負け」とか「責任転嫁」とか、さらに「戦争」という概念は生れえないのでは、と私は思う。

 何かを嘆くことは恥ずかしいことなのか。
 他者を嘆くことはいけないことなのか。
「嘆いていては何事も始まらない」とはよく言われるが、自己保身のために、自己を配慮するために、自己を嘆くことは許されるのか・・。
それは不必要なのか、無駄なのか、そう考えることは「気の病い」なのか・・。
 お釈迦様ならどう答えられるだろうか。
 凡夫には思想などない。
「思想など持たない」そのことが思想なのである。
 養老先生の本を読み終えたいま、未来が気になる。凡夫の未来が気になる。

 ただ凡夫ということばには、なにか温かい響きがある。凡夫の道があるような気がする。
 その道を外れると、仏教でいうところの六道があるのかもしれない。
 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上である。
 凡夫はここにはない。凡夫は人間に属するのか。はたまた天上にもつながるのか。
 それとも修羅なのか。
 畜生なのか、餓鬼なのか。
 凡夫はいずれにも属する不安定な生物なのかも知れない。




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