小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

存在することの慄き、痙攣する身体

2013年07月01日 | 芸術(映画・写真等含)

わたしのアートシーン ① フランシス・ベーコン

5月から6月にかけて自分としては不思議なくらいに芸術に親しんだ。その初めがフランシス・ベーコン。抽象でも具象でもない、感覚的というより神経繊維・細胞を逆なでするかのような異様な世界、歪んだ肖像、変形した身体、生々しい色彩・・。
初めてベーコンをみる人は、身震いするようなショックを受けるかもしれない。                                                   

わたしの場合は、絵画というより最初に彼のアトリエを見て「狂気」を感じた(遥かむかしのこと)。

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あの狂気のゴッホでさえ風光明媚なアルルの瀟洒な部屋のなか、画材などモノは少ないながらも整頓された倹しいアトリエだった。
ベーコンのそれは乱雑どころではなく、無秩序・混沌の極みだ。
後で分かったことだが、アトリエは作品を産み出す「場」であることは必定だが、壁と床そのものがパレットであり、アトリエ空間はベーコンの拠るべき源泉ともいえる記憶のカオスとビジュアル素材の格納庫であった。
というのは、彼の死後にアトリエの資料群の中から、作品のモチーフとなったであろう写真、映画(連続写真)、新聞の切り抜きなどが発見された。
これらの写真からインスパイアされ、ほとんどそのままのイメージを受けつぎ絵の素材として描いた。その手法ゆえ、ベーコンはポップアートの先駆者として見なされたこともあった。

わたしはベーコンの絵の特徴を、たんに暴力的とか、グロテスクだとは思えない。
人間関係において繊細で傷つきやすく、過去の悲惨な体験や恐怖に慄く、ある意味ヘタレな男がなんとか現実に向き合い、愛や性、生きることの根源を描いたもの。そんなふうに勝手に解釈している。

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ある磔刑の基部にいる人物像のための三習作・1944 (三幅対=トリプティック)

グロテスクに肉体をデフォルメしたり、あるいは顔の表情を極度に歪めたり、ナイフで傷つけたようなノイジーな描線。また、叫び、血、性器、肉魂、男色など、ベーコンらしさを特徴づけるキーワードは、どれも頽落的で反宗教的なイメージがつきまとう。

今回の回顧展は初期、中期、後期に分け、それぞれ「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」というコンセプトでゾーン分けされていたが、私はそれぞれの作品に大きな違いはないと思うし、その意味づけの理由は理解できなかった。

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叫ぶ教皇のための習作
ベーコンの描いてきた身体とは、それが人間であれ牛や犬などの動物であれ、その存在としての危うさ、儚さを内包している。そこには揺るぎのない強さとか、確固たる主張などはさらさら感じられない身体表現だと思う。子供のころから動物性アレルギーによる喘息で悩まされていたベーコン。その後、彼は世界大戦の殺戮・暴力を実際に見聞きしたりして、人間の身体がきわめて脆弱で存在感が希薄なものとして了解したはずだ。わたしも、それが肉体の本質だし、生と死が連続する、危うい身体性に生きる根拠を見出さざるをえない。(だから人間は精神的なもの、イデオロギーや強い思い込みで武装する)

ベーコンは、そんな人間像を幼いころから見つめていたのではないか・・。

くりかえすようだが、ベーコンのような身体の表現描写とは、慄き、震え、歪む、痛む、ときには叫ぶ肉塊そのものなのだ。今回の回顧展では、土方巽の舞踏映画「疱瘡譚」(ほんとに懐かしかった)と、ウイリアム・フォーサイスのインスタレーション映像をみることができた。彼らもまさしくベーコンの身体表現に憑りつかれた継承者だとおもう。

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↑土方巽「疱瘡譚」より

Peter Weltz e William Forsythe

人間の実存性とか、身体の意味、限界について考えたりしたことがある人だったら、ベーコンの絵画にはかなり引きずり込まれるとおもう。

日本ではあまり人気がなくベーコンと並びイギリス現代絵画の巨星といわれたルシアン・フロイド(あの精神分析のフロイドの孫。一昨年亡くなったときにも日本ではほとんど報じられなかった)。ベーコンとは友人であり、その人間関係もかなり錯綜していたようだ。その「ルシアン・フロイドの肖像のための三習作」も見ることができたことも良かった。

しばらく私のアートネタを続けたい。

 

 


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