小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

五十嵐大介を読んで、ヤンバルを想いだす

2008年01月12日 | エッセイ・コラム

1年ぶりだ。月日の流れが奔流のように過ぎ去る。

少しずつ書いていこう。

最近、五十嵐大介を読んでいる。読むという言い方に間違いないが、漫画には読書では得られない視覚体験が伴う。絵だけにとどまらず、擬態語などの文字要素もカリグラフィとして楽しめる。

p>漫画はある意味で文学を超えるジャンルになるだろう。

それにしても五十嵐の画力には圧倒される。

真似をしたくなって、トレペを載せて彼のタッチをなぞってみたことが何度もある。

 たとえば自然を背景にした古い家屋の絵。過不足のない線は正確で、朽ちかかる家の佇まいはそこに棲む人の成熟した生活の営みとか、人生の諦観がにじみでる。

 昭和で経験した高度成長とモノの豊かさに取り残された停滞した景観。そこに単なる感傷的でない「懐かしさ」を感じるのは私だけだろうか。30そこそこの五十嵐が見ているのは何だろう?

 これらの絵は宮谷一彦あるいはつげ義春を彷彿とさせるが、私にとってはもっと賞翫させる何かがある。

 たとえば直線的な線。建物はもちろん、電柱や電線などはすべてフリーハンドだが、その直線そのものにリアルな正確さがあり、愛おしく、奥行きのある風景を出現させている。この力量は画家である。

 真似したくなるのはまだある。人物をクローズアップさせていくコマの絵。最終的に目や口の部分に収斂させる技法も凄い。「海獣の子供」のジム・キューザックの瞳。「魔女」の口のなかの歯ならび。美しさや純粋さを、解剖するような見方だ。

 彼は単に絵がうまい漫画家ではない。生き方も本物志向だ。彼自身が東北の過疎村で生活しているだけあって、自給自足の悦びやつらさを実感豊かに表現する。獲れた食材を料理する多彩なエピソードも素晴らしい。彼のレシピに倣って私も自作のチャパティづくりに挑戦し、家族の好評を得た。

 そんな五十嵐の自然に対峙する姿勢というか、付き合い方はいま流行りのスローライフだと表現するには憚れる。自然から得られる恵み、そして隣人や動物たちへの感謝と慈しみ。さらに人間としぜんとの関係を超越するものへの畏敬。仰々しい言い方だが、そうした深い世界が描かれていると思う。でも決して重々しくない、清々しい軽さがある。宮沢賢治が五十嵐の漫画をみたらどう思うだろうか・・。

「はなしっぱなし」のなかの「甲羅干し」の冒頭に人里離れた山、森が描かれていて、

「山にすむものは 破裂音に ひどく 驚くという 例えば銃声 例えばくしゃみ」

という文章が書かれている。

いっぺんに私が沖縄に住んでいたときのことが蘇ってきた。私がまだ26,7歳のころのことだ。

 山原(ヤンバル)の山奥でダム建設のための調査・測量の手伝いをしていた。その時はヤンバルクイナの存在はまだ確認さていず、ヤンバルは日本の秘境だといわれていた。

南米のジャングルのような高木はないが、植物は鬱蒼と繁茂し、亜熱帯特有の動植物の宝庫だった。

昆虫はすべてが内地の倍ぐらいの大きさ。

雨上がりには10センチを超えるナメクジが木々を這い回る。

水溜りにはイモリが群生していて、毒々しい赤と黒の腹を見せながら泳いでいる。

緑色の蛇が滑り落ちるように蛇行してくる。その躍動に惚れ惚れする。

もちろん、ハブもいるというから、私たちは血清を持ち歩いて仕事していた。幸いハブには出会うことはなかったが、足元にマムシがいて伐採用の大鉈で殺したことがあった。その時、恐怖にかられた私を見て、地元の人に大笑いされた。いま思えばマムシに申し訳ないことをした。とにかく山の中では緊張を解くことはできなかった。

時々「シュッポーン」という、大きな破裂音が森のなかで響いた。

私たちはその未知の音に言い知れない恐怖を覚えた。

ある日、その破裂音が私たちのそばで聞こえた。私たちは警戒しながら、その音をだすものに近づいていった。20センチぐらいの亀だった。私たちの存在を認めると再び「シュッポーン」と鳴き、足早に川のほうへ逃げていった。あの、森全体に響き渡る音の主にしては小さい亀だったことに我々は驚いたが、あの破裂音が亀の防衛本能というか、亀がきわめて臆病な動物であることに全員が納得したものだ。そう、山にすむものは、得体の知れない破裂音に、人も動物も警戒し近寄ろうとはしない。そういう自然のメカニズムを五十嵐が体得している証左といえるだろう。

五十嵐大介は、私にとってとても大切な人だ。


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