小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

いじめとは何か 2

2006年12月31日 | エッセイ・コラム

愛すること。愛されること。
好きな人がいること。
あたたかく抱きしめられた記憶があること。
他者への愛。他者からの愛。
これらを認めることができたら、自分が他者を必要とすることを承認することになる。
他者を必要とする自分。他者に支えられている自分。
それは自分が弱いということを認めることだ。
自分が実存することにおいて弱者であることを承認することだ。
仮にでもいい、そのように認めることを人間としての初期設定とする。

では苛めることと、苛められることは、強者と弱者との力関係をあらわすものなのか。
これは絶対的なものではない。条件次第で簡単に逆転するはずだ。
いじめの関係は移ろいやすいが、自分が強者であることに執着するものは、つねに弱者という存在が必要となる。それは自分が弱者であることを否定したい、というあの「ジャイアン」的欲望を認めることだ。
それは暴君とか独裁者の心理状態とほぼ同じだ。(暴君がなぜ生まれるのか。無際限の我儘が認められる愛情の過多あるいは不幸な状態の継続や虐待による心的外傷を受けることの反動なのだろうか)

傲慢さというのは、他者がとるに足らない不完全な人間だと思い込むという願望から生まれる。
自分があらゆる点で上位者であるという妄想といってもいい。
その時点で自分が弱者であることを忘れることができる。他人と共存するという煩瑣な手続きやコミュニケーションも必要ない。他者に対しては命令、恫喝、威嚇あるいは無視といった一方的コミュニケーションですむ。
いや、コミュニケーションにも達しない、暴力的通達だ。
しかし、暴君であることは孤独な状態だ。そして本人が気づかない根源的な不安を抱える。
暴君は他者つまり下位者からの途切れない賞賛があっても、出口のない不安状態におかれるはずだ。
そしていつか精神的な均衡が崩れるか、自己を狂信するという道筋しかない。

苛める側の子供は小さな暴君なのか。もし、暴君的だとしたら、孤独で不安なんだと思う。
でも、そうだとしても、両親の愛や支えがなくなったら苛める根拠をたちまち失う。
なぜなら自分が弱者であることを思い知らされるからだ。
「いじめとは何か1」で書いたように、苛めは不健全ではあるが「対象」の確認である。
「苛めとは何か」を子供自身が本質的に分かっているわけではない。
現代の苛めは、陰湿で隠蔽され、なおかつ「事件」としても発展し、最悪の場合苛めによる自殺というケースもある。(100%苛められたことが原因なのかどうか誰にも断定できないが・・)
それは子供の人間関係ではなく大人の人間関係の投影であり、子供的な解釈であると思われる。
そして言うまでもなく「不幸」な現象である。
何かが足らないのだ。たとえば「助言」とか「励まし」だ。
それは言葉でではなく、なんらかの身体的表現で行うことが求められるだろう。

現代は他者への無関心、孤独への志向が強いといわれる。
それは他者の裏切り、軽蔑などなんらかの落胆する感情を味わいたくないという自己防衛本能なのだろうか。あるいは利己的な個人主義の浸透なのか。
日本でも欧米化が進み個人主義が蔓延しているが、絶対的な神との契約という習慣、エートスがないから、必ず周囲との摩擦が生じる。一神教の国々で生まれた人々は、つねに神との一体感を感じられるTPOがあるので、個人主義が徹底されても生きるうえで不合理を感じることはない。
日本では、「人」と言う字が支えられいることを表すとか、「人間」という字が「人と人の間」を意味するように、共存性や相互性を重視されている。それは叡智であり本質的なことだ。
だから日本ではかつて個人主義は「自由に自己を主張する」あるいは「他人を顧みず利己的にふるまう」と見なされた。しかし戦後はそうではなくなった。誰かが警鐘したように「滅公奉私」は蔓延している。「個人の尊厳」に重点をおくことは間違いではない。しかし、「尊厳」そのものは「他者感覚」を媒介としなければ成立しないのだ。

何が「苛め」で、どこからどこまでが「苛め」なのか。
私はルソーの時代にまで遡って考える必要があるのかもしれない。
良い年になることを祈って。

 


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