小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

フェイクはトゥルースより強し

2022年12月07日 | エッセイ・コラム

「しゃっくり」について書くつもりだったが、この歳になってつくづくと身に沁みたことがある。

それは、世間というもの、いや実社会でもそうだが、物事の本質とか真理や真実というものは、それほど必要とされていない。本当の事とか、真実は実のところどうでもよろしいのか…。

多くの人びとにとっては、真理らしきものよりも、自分たちが属する社会や経済が円滑に回って欲しい。それこそが切実な願いであり、求めているものなのだ。仕事、家族、友人、個人的な趣味嗜好、その他すべてをひっくるめた安寧が続くことも同様だ。それはまさしく自明なことである。

但し、永遠の真理という命題は、古代において哲学を生み、さらに一神教という宗教を創り、人びとはそれを拠りどころとした。ギリシャ・ローマ、イスラムへと時空を超えて人びとを支配し、西欧を頂点とする文明を構築したのは、絶対無二の真理、唯一神だった。

民族、宗派それぞれが信じる真理を御旗に、差別、相剋、分断、敵対、殺戮の歴史を積み重ね、今日においても終息することはない、つねに真理を求めてゆく行為。この根源的な渇望はどこから来るのか…。

(お互いが歩み寄ろう、妥協しようと、古代ギリシャでは民主主義の萌芽もあったが、政治形態としてシステム化したのは、近代以降かな…)。

さてさて、この日本では、これが真実だ、見ろこの真実の数々を!と頭ごなしに言われても、ハイそうですかと俄には信じることはできない。どんなに権威のある専門家のご託宣だって、疑ってかかる場合がある。奇妙な事実、不都合な真実がゴロゴロ多すぎやしないか。

この辺りのことは、やはりコロナ禍のことで実感したし、つい最近の中国における0コロナ対策に対する反政府デモは象徴的だった。習近平体制において、主要都市で同時に発生したのは驚愕ものだ。

また、それ以前の安倍元首相の狙撃じけんを端緒とした、元統一教会と自民党の政治家らのズブズブのもたれ合い、つまり組織の信用拡大、選挙当選を狙う打算的で互恵的、かつ法外な事実関係を隠蔽していたという事実の数々…。

元統一教会が真正なる宗教団体かはさておき、この金銭、その他の寄付などの有無を追及するメディア、ジャーナリストは機能不全に陥っていたに等しい。民事訴訟のレベルでは、弁護士たちの必死の訴えもあったのだが、そうした声を拾うこともできなかった。

事実そのものを検証する手続き、証拠・証言集め等は、煩雑でありその仕事量は膨大で、知的営為のたまものと言っていい。しかし今、世界の超大国アメリカの大統領がD.トランプになって以降、世界はフェイクかトゥルース、虚偽か真実かのどちらかに属するのか、誰かに迫られている感じが強い。

トランプは大統領になるまえからツイッターというSNSの使い手であり、有ること無いことそれこそ虚々実々のネタをばらまいていた。本来はディール、商取引が目的だったのか…。大統領になってからは、間違いなく政敵、都合の悪いファクトの駆除だ。当然、反対勢力から反論なり、事実無根の反証がなされるが、トランプはそれらをすべてフェイクだと強弁し退けた。

次々と繰り出されるフェイクに、反トランプ派も同じ方法でフェイクだと応酬しはじめた。ファクトなのかトゥルースなのか、それともフェイクなのか、無数の事実の中から一つひとつ科学的に検証するなんて、土台無理な話である。アメリカのメディア、言論界は実質的には子供の喧嘩の応酬みたいになっていましたね(笑)。

大嘘つき野郎としてトランプが排斥されなかったのは、彼がアメリカの中核ともいうべき白人、プロテスタント福音派の絶大な支持を受けていたからだ。偉大なるアメリカを建国した子孫、末裔としての白人たちは自由と独立を勝ち取った矜持をもつ。そんな共通体験をもつ彼らは、1960年代には全人口の9割近くを占めていた。今や人口比でいえば主流派でもなく、自分たちの宗教観、価値観に拘泥する頑固な人たちに過ぎない。

現状から言えば、トランプは政治の第一線から退くであろうと推測されている。しかし、トランプがもたらした真実か虚構かの罵りあいゲームは、保守右翼とリベラル左派の断裂とは違う、より複雑な反目や亀裂が生まれそうな気がする。それに、第2第3のトランプも控えている。

そう、ウクライナ戦争を焦点に、アメリカとロシアから次々に生産されるフェイクとトゥルースに、世界は翻弄され人びとは迷走するに違いない。経済はぎこちなく回っていくだろうが、フェイクとトゥルースの狭間に立って、精神のカオスが来やしないか、不安な今日この頃である。

 

追記:今日の格言:カトリックは愛を説く、プロテスタントは罪を、勤勉を説く。

🔺カータンという名前をもつカラス。英国本国に語学留学した友人を紹介したことがある。彼はジョギング中に新宿のある公園で、仲間たちに虐められ、羽根を傷つけられて翔べなくなったカラス、カータンに出会った。なんと人と子どもカラスの交流が生まれたが、その友人以外にもカータンに寄り添い、何かと手助けをしている方が2,3人いるらしい。

そして、カータンを陰でじっと見守り、仲間たちが虐めはじめると、すぐに飛んできて助ける、実の両親がいることも分かっている。

カータンにとって、たぶん真理なんか必要ではないだろう。そういうものを求めるのは、人間しかいないだろうな。

だいぶん前に宮澤賢治の『夜鷹の星』を読んだことがある。夜空に煌めく星になりたくて、死んでゆくように漆黒の闇夜を飛翔していった。

何か真理をもとめて、力を尽くしていくイメージがいまだにある。賢治も真理を求めていた人だった。


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