小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

七夕の日に、なにを願うか

2019年07月07日 | エッセイ・コラム

遥か昔になるが、たぶん小学校だったか、七夕だというので短冊にお願いごとを書き、それを竹笹の茎に括りつけた記憶がある。クラスの皆で笹に色とりどりの飾りつけをし、先生が用意した和紙に、それぞれが願いごとを書いた。

どんなことを書いたのか、なにも覚えていない。野球が上手くなるようにとか、そんな子どもっぽいことしか思いつかない。女の子のなかで、世界が平和でありますようになんて、今となれば褒められることを分かっている子もいた。

(追記:投稿してしばらくして、記憶がすこし蘇ってきた。彼女の面影、顔の輪郭・・。世界の平和を願っていた、本気でそう想っていた彼女は。そうだったかもしれない、と思えてきた。)

昨夜から石牟礼道子と伊藤比呂美の対談『死を想う』を読んでいて、ちょうど七夕の話がでてきた。

石牟礼は幼い頃、子どもとはいえ「我に七難八苦を与えたまえ」と、短冊に書いたことがあったそうである。もっとも教科書にあった戦国武将の山中鹿之介の話をかじっていて、それからの引用らしいのだが・・。それにしても、達観し過ぎというか女の子らしくはない(でも、父親はまんざらでもない顔をしていたとのこと)。

そうだ、彼女は7、8歳のころに川に身投げしたり、成人してからも水銀の入った毒を飲むなど、何度か自殺をはかったひとなのだ。家庭は貧乏のどん底常態が長く、身内にいろいろな不幸も重なっている。ご自身と両親は長生きしたが、決して幸せとはいえず、苦難と悲嘆を重ねてきた人生だったであろう。

それでも彼女の父親は、喧嘩の仲裁を進んで買って出たり、無残にも殺された少女(娼婦)の葬式を、自ら取り仕切ったほどの義侠心のある人だった。母親も徳と信心の篤いひとで、戦中、戦後にかけて、乞食や巡礼、琵琶を弾く女の二人連れ(漢字の「ごぜ」が変換できない)、彼らが家のまえに通れば食べものを提供した。すぐに食べられるものがなければ、乏しくとも生米か稗(ひえ)を分け与えたという。

さて、半農半漁の貧しい人々が暮らす土地を収奪し、チッソという会社は戦前から、近代日本をささえる優良企業として、水俣を席巻していたといえるだろう。その地に繰りひろげれた惨劇、負の歴史は、けっして終息することはなく、沖縄や福島など、その問題の表層は違うが、本質・根本はいまだに解決されていない。(チッソ被害の歴史はここではふれない。ユージン・オニールのことはいつか書き残したい)

石牟礼道子の言葉でこれはというものが幾つかあったのだが、いちばん印象のつよい箇所を、二人の会話から抜き書きする。

石牟礼 半端な人間ですよ、わたしだけでなく、生命、特に人間は、生きていくことが世の中に合わないというか。

伊藤 人間が?

石牟礼 人間がどこか無理じゃないかと。私だけじゃなくて、無理しなきゃ生きていけないじゃないかって。どんな意識を持つか、それはわかりませんけど、生きているということには無理があるなぁという気がします。

伊藤 でもアニミズム、さっきも宗教の話で出てきましたけど、その基本は生命でしょう。宇宙に散らばる塵みたいな。それは生きていることで成り立ってますよね。人間もその一つとして考えられません?

石牟礼 そう、だけど「そらのみじん」になったときはいいけども、まぁなるんでしょうけど、生きている間は、どうも世間とうまくいかない。何かお互いに無理しているなぁという気が・・。(以下、略)

 

石牟礼道子は、熊本県の水俣で一生を過ごしたが、『苦界浄土』を書き続けることで、水俣で悶死したといえようか、死に逝く人々の怨念を祓い、祈ること、鎮魂することだけに、死の淵まで専心した。その他エッセイ、詩集やお能の台本などをてがけ、彼女の渾身の執筆はけっして折れることはなかった。晩年にはノーベル賞にふさわしいと、海外にまで高く評価されるようになった。

この『死を想う』という対談集(平凡社新書2018刊 )は、12年前に行なわれた対話がベースになっている。石牟礼さんのパーキイソン病は、まだ深刻ではなかったようだが、78歳の彼女の口からは、随所に「死の覚悟」が見え隠れする。体調が日々悪化しながら、詩人としての作品も高く評価されてき、その作家としての気迫、詩魂のもちよう、ときに死に向かうことへの諦観、死生観が縦横に語られる。

一方、伊藤比呂美氏は、この頃両親の介護でアメリカを往復しながらの過酷な生活を続けていた時期。そんななかで、石牟礼道子という希代の作家、いや詩人の言葉の力に心服するほど畏敬していたことがわかる。彼女も新たな「生」の段階をむかえ、石牟礼道子に容赦なく肉迫し、言葉を引き出させようと・・。まあ先達と弟子の会話のようだ。

この二人の「死」をめぐる対論には、思いがけなく引きこまれ、女ふたりで『梁塵秘抄』を語り合う最後の方では、女のバイタリティと哀切を、極限まで突き詰めている強い印象があった。嗚呼、男はやはりいい加減な生き物だと思わざるを得なかった。


さあ、老い先の短いこの歳になって、今宵七夕にどんな願いを書くとしようか。「我に七難八苦を与えたまえ」なぞと、口が裂けても言えるはずもなく、「日々平穏」なんて悠長なことを書けば、恥を知れとお叱りを受けるだろう。身の程知らずのお願いはあきらめて、自分なりのささやかな望みを見つけよう。

かなり前になるが、生まれ変わるとしたら、なんになりたいか、そんな他愛のない話で、座が盛り上がったことがあった。そのときに何故か「わたしはフクロウになるだろう」と、それまで思ったこともなかったことを言った。そのとき、「××さんならありえるし、なるかもしれない」などと、違和感なく受け入れられて悦に入り、それから梟、木菟という猛禽類が至極好きになった。

ということで「あの世では梟になりますように」と願うか・・。しかしながら、この長雨で星一つだに見えるはずもなく、心願成就を果たすことは無理とあいなった。

どうせなら、「梟」になるのもいいが、死に向かいながらの仇花でもいい、ちょっと色のある華やかなことを夢みてみようか・・。

七夕の願いはひとに読まれたら雲散霧消するという。ここは、わが心の短冊に筆をはしらすとするか・・。重い話で終わるより、少しはましかなと思った次第。

 

▲昔の携帯の写真がすんなりとスマホにおさまったようだ。来世があるとしたならば、梟か木菟か、迷うところだ。最近では梟カフェには行かないと決めている。


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