小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

夢中飛行からの、黄金目線

2015年10月12日 | 芸術(映画・写真等含)

 

性懲りもなくまた「黄金の上から目線」の続きを書く。

空中にアイレベルを設定してその高みからみた光景。そこに意味はあるのか。
なぜ、わたしが拘泥るのか、すこし私的なことがらにふれる。

少年の頃たまに「空中を浮いている」夢を見た。今はほとんど見ないが、風邪をひいたときとか体調の悪いときに見たような気がする。ふつう大人になると見なくなるらしいが、二・三十代になってからも時たま見ることがあった。
どんな夢かというと、だいたい二階の屋根よりやや高いところに浮かんでいる。ちょっと身体を前のめりにすると移動する。飛行するというより浮遊するかんじだ。やや斜めに立っている姿勢で、足を軽く蹴るとスーっと前に進んだ。
友だちが5,6人追いかけるように私についてくる。自由に気持ちよく空中に浮かんでいて、皆のやんやいう声のなか、上から眺める景色を楽しむ。やがてこれは夢ではないかと思いはじめる。
宙に浮くパワーが減衰していき、二階建ての屋根の高さから平屋の屋根ぐらいまで落ちてくる。友だちがはやし立てる。そこで自転車をこぐように足を回転させると、なんとか少し上へ浮き上がる。
浮いたり沈んだりして疲れ、やがて友だち或いは見知らぬ人が真下に来て、私の足をつかもうとする。必死で足を動かすが力尽き、もう地面は目前。そこで目が覚める。

フロイド派の夢分析では、「夢中飛行」の定説として性的衝動とのなんらかの関連が特長とされる。またフロイド自身は、空を飛ぶ夢の源泉として「高い、高い」をしてもらう赤ん坊の記憶をあげている。さらに、言葉を話せない幼児から成長し、なんとか話せるようになって、その大人の仲間入りを果たしたという歓びが「夢中飛行」になるともいう。

「夢の中では、まるでその[言葉を話せない]状態から抜け出たちょうどその瞬間の驚きが、再現されるのである。空を飛べる、それは言葉を話せるという驚きなのである」
さらにこんな解釈もある。
「空を飛ぶ夢は高いところから人間の世界を見下ろす夢です。それは空を飛ぶ鳥のように世界を見下ろす超越的な立場に立つということです。言葉を話すことで経験された全能感は、世界や自分を外側から見る超越的で優越的な立場に立つ夢であり、空を飛ぶ夢として表現されるというのです。言葉を話せるようになった人間は、自分という人間や、そのほかの人間たちの外側から自分を見て、自分がどのように見えるかを試してみる。そして自分に向かって言葉を用いて、自分を人間として認めることが、〈言葉を話せるようになる〉ことなのです」

なんでこんなことをぐだぐだ書いているのか。
「黄金の上から目線」を書くきっかけは、安野光雅展に行き、「旅の絵本シリーズ」の原画を見たときのこと。私はその2,30点もある空の高みからの風景画を見終って目まいを感じたのである。

(繰り返しで申し訳ないが確認の意味で安野光雅氏の作品をふたたび掲載します)

              

 

そのどれもが同じくらいの高さからのアイレベルで描かれた風景画である。大半を見終ったときぐらいから、夢中飛行の感覚がよみがえってきたのだろうか、突然のごとく身体の不安定さを実感してよろめいた。同行している家内には打ち明けなかったが、かるい吐き気のような気持ち悪さもともなったのだ。ずーっと高いところにいる感覚と錯覚し、高低差あるいは気圧を感じる身体的センサーがなにかの誤作動をおこしているかのような居心地の悪さ。言葉にできない不思議な異和感をあじわった。

フロイドの同時代人、イギリスの心理学者でハヴロック・エリスという人がいる。
岩波文庫に「夢の世界」という本があり、「正常の夢を対象に、科学的観察態度を貫いた」心理学を展開している。
この本の第6章が「夢中飛行」にあてられ、なぜ見るかという原因に脳、心臓、筋肉、呼吸のいずれかの疾患、不整を挙げている。また、すこぶる科学的な心理学医療というか、夢中飛行を体験した様々な人への問診から何らかの身体的異常を発見している。

さらに寝ている時の皮膚感覚、つまり圧迫感やら接触感も飛行感覚を呼び覚ますという。
麻酔状態で眠っているとき「触感と聴覚が消えるとともに、身体は完全にその位置方向を定め得なくなる。それは何処にもないように見え、たんに空間に浮遊しているかにみえる。それは非常な恍惚感である」と記されていた。
もっと紹介したいものがあるが、このへんにしておこう。

以上、ハヴロック・エリスの説とを併せると、私が突然の浮遊感覚および眩暈感におそわれたのは、安野光雅の絵がきっかけだったとしても、自身の身体的異常(健康診断をうけると心電図では心筋虚血の疑いが必ず指摘される)が根本にあったかもしれない。つまり高齢者にありがちな何らかの疾患の現れだっただけなのか・・。
こんな話を延々としていて申し訳ない。

ともあれ、空中の高みから見下ろした景色は、気持ちの良い晴々したものであるが、それが「夢中飛行」のばあいには身体的な変化に根ざしていることを言いたいのである。
フロイトも夢中遊泳・飛行の源泉に乳幼児期の「高い、高い」の身体的記憶をあげていたが、私はさらに父親だろうが肩車をしてもらったときの記憶も付け加えたいのである。
大人たちもよりもさらに高いアイレベルを獲得し、日頃とはまったく違う景色をみることの恍惚感、誇らしさ。信頼すべき親の肩にまたがって、その歩みの軽い振動をともなった爽快感。
それはまさしく「黄金の上から目線」ではないだろうか。肩車をしてもらった記憶を語る、いい文学作品はないだろうか。

映画「ベルリン、天使の詩」にもふれたいが、話が飛躍しそうで止めることにする。

 

さて、「再び、黄金の上から目線」において、黄金比の長方形の対角線の角度は約31,78度になると記した。この傾斜角度を実感できるものはないかと、安保関連法反対の激しい動きのなかでも、私は密かに探していたのである。

ごく身近にあった。高尾山のケーブルカーである。実にここは、日本一の急こう配を行き来するケーブルカーがあることで名を馳せていたのである。
その最大斜度31度18分。黄金の上から目線である、傾斜角度31度を体感できるのだ。

もっと急こう配のものがあるらしいが、鉄道事業法準拠の日本の鉄道における最急勾配としては、高尾山のケーブルカーが認定されているのである。
私は二、三度訪れたが、いまだケーブルカーは未経験(小学校の遠足では乗ったか)。ミシュランに登録されてから、なんか行きづらい。

          

 

 

 

追記: 安野光雅展の一週間ほどまえに、世界報道写真展を見に池袋に行った。今年の特長は、あきらかにドローンを使ったと思われる空撮が増えたこと。たくさんある入賞作品の、一割ほども占めたのではないか。このドローンを使った写真や動画が目立ちはじめている。今まで目にしてこれなかったもの、新たな視点の獲得など「上から目線」は報道写真のこれまでない潮流をうみだしつつある。だが、それは本来の大地に立つ人間の視線、質感を手放すことにも通じる。

 

一般ニュースの部 単写真2位 マッシモ・セスティーニ(イタリア)の作品


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