小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

境遇について

2012年12月02日 | エッセイ・コラム

 むかし、境遇はだいたい12,3歳を超えたら己の責任として自覚し、元服の時にはそれから逃れることはできなかった。

 武士であろうが百姓であろうが、戦国時代ぐらいからそういう覚悟をもつように幼少の時から躾けられたという。本当にそうなのか、私は学者ではないから分からない。
文献から引用して実証するようなアカデミックなこともできない。
狡いと言われたらそれまでだが、経験的に語るしかない。
 (何故、このようなまどろっこしいこというのか、知る人ぞ知る)

境遇とはなにか。

 境遇、自分の身の回りのすべてに関することは、四の五とは言わずに引き受けるべし。なんら疑うことなく所与のことであるとされた。
 そしてそれは、男女の差はない。

 境遇の遇の由来。

 「偶然」「土偶」のつくりは獣がうづくまる姿からきている。
 土偶のグウは人形(動物として)を意味する。
 つまり土偶は副葬品であり、残された者の魂を込めたモノであり、理由は解明されてないが二つ・ペアで埋葬されたのだ。
境遇のグウのつくりはそれから来ていて、土偶の遇人とはときたまにしか遭うことしかできない。
 境遇の遇はそれほどに深い、古えの意味をもっている。

 とにかく、自分の境遇は、あらゆる条件とか伝統的制約を受けとめて、それぞれ自分で責任を負うこと。
 責任転嫁は論外。、馴れ慕う人に愚痴をいうとか、エキュスキューズすることは許されない。
 いまの自分の境遇にかんしていっさいの他者は介在していないことをリアルに叩き込めすべしとされた。
 とーぜん、不平・不満はもとより、不遇感のようなものは自分に責の大半がありとされた
恥ずかしながら私がそのような認識を持つに至ったのは四十代後半だった。

故平岡正明が「山口百恵は菩薩である」という著作を書いたモチベーションを言いたいのだが難しい。もっと具体的には書けば、パフュームというアイドルの存在を想起してもらえれば助かる。 実に表現が難しい。

端的にいうと、身体感覚として神輿を担ぐ快感である。(日本人としての行動規範の拠り所を含む)
主観的には全員一体的な高揚感。(ふつうはそこで気持ちよく収束するが、客観的には恥を知る感覚もなくてはならぬ)

パフュームの身体所作は、お祭り・盆踊りのバージョンアップである。
これは極めてドメスティックなものだ。
グローバルなものに拡がるなんてことは幻想で、よしんば世界的にスマッシュヒットされても「上を向いて歩いて行こう」の領域であると思う。

 そう、パヒュームに入れあげる精神は極めて健全である。
 しかし取るに足らない第三者に傾注することは時間の無駄だし、精神分析的には自分を鏡で見るような感覚に近い。いまの言葉でいうと「痛い」のだ。

 取るに足らない他者に、大切な時間を割く余裕はないこと。
自分が真剣に向き合うことは、その人の心のなかにあるんだ。


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