小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

児童虐待死を考える(続き・備忘録として)

2019年02月25日 | エッセイ・コラム

 

先日、児童虐待死の記事を書き、今後の動きを注視せねばなるまいと思っていた。にもかかわらず恥かしいことだが、今国会において「親による体罰禁止」が、児童福祉法と児童虐待防止法の改正に盛り込まれ、重要法案に指定されていたことを今朝の新聞のコラム記事で確認した次第である。
近頃、世の中の動きというものが、澄明さをもって見えてこない。愚生は社会から疎まれている、などと、へんな猜疑心がもたげている始末。

ともあれ、児童虐待死の驚くべく事件に敏感に呼応したというべきか、政治家・当事者らがいち早くその「法整備」に取り組んだことをしめしたことは分かる。しかし、法制度を改正すれば、この種の問題が根本的に解決できるかといえば、そう簡単にはいかないだろう。

なぜ「いじめ」や「ひきこもり」がなくならないのか、「DVをする親」がどれだけ増えているのかなど、そうした社会・教育環境の調査・分析は、初歩的なことだが徹底して行わなければならない。経済の統計調査とおなじく、社会調査は基幹であり、長期に亘って持続されねばならない。

さらに、こうした事件にまきこまれた児童、DVをした人間たちへの、きめ細かい追跡調査が求められる。たとえば心理カウンセリング、過去に遡っての行動実態分析など、この際、徹底的な調査・分析をした方がいいのではないか・・。
「法整備」を早急にすれば問題は解決できる、という安直な発想はやめてほしい。

また、今回の「親による体罰禁止」が俎上に載ったのは、たぶん国際的な流れを見極めた結果であろう。愚生は、体罰は安易に行なってはならないが、「教育・躾」という概念において、ほんの片隅にでも想定して良いと考えている。緩い考え方かもしらんが、ケースによって愚生は判断を留保する人間である(これは優柔不断ではない)。

もちろん、身体的暴力、強制により児童を教育することが主目的ではない。まして、PTSDとして精神に傷害がのこるような「体罰」は行き過ぎ、もっての外だ。

親が子どもを躾るときに、言いきかせることも困難になるほど、想像を超える悪行を子どもがしでかした場合、瞬時に「お尻をたたく」など体罰をくわえることは、内外問わず古来より行われてきた。

愚生は子供のころに「体罰」を受けた記憶がある。そのとき、とんでもない悪いことをしてしまった、と気づかされた微かな残像がある。それが「戒め」として心に刻まれ、さらに大切なものとして身体に沁みついている(どんな悪さをしたか、具体的には言えない)。

学校にいくようになっても、我がまま放題に育てられた子どもは、そのまま学校内でも悪行が制約されないと、いわゆる「ジャイアン」のようなプチ・モンスター化する可能性はなくもない。また、今回の「親による体罰禁止」の重要法案の指定もそうだが、なぜ「親」だけに限定されるのか、拙速な対応策のような印象に思えるのだ。

もっと広く、「大人による体罰」をいったん想定しておく方が、将来の想像を超える事態が起きても、臨機応変に対処できると思うが、どうか? (考えすぎかもしれないが・・)。

「体罰」はこれからも、「教育論」のなかでのみ議論されなくてはならないテーマなのだ。宗教観、時流に合わせたリベラリズムから脱却すべきだし、間に合せの世界標準に合致させる必要はない。その国の歴史・文化、宗教観やエートスといったものに照らし合わせて、あくまで純粋なこの国の理想の教育をめざすべきだ。

新聞記事を読んでいる傍らで、今朝のNHKの討論番組では『児童虐待をどう防ぐ?』というテーマで、上記の「親による体罰」の法制化を含めて、6人の専門家による話し合いが放送されていた。
ちょっと驚いたのだが、「児童相談所」そのものの存在意義、権限や機能、警察との連携あるいは市民とのコンタクトなどは、それぞれの専門家によって理解や受けとめ方が違うのだ。
立場によって、これほどに「児童相談所」が異なるものとして存立し、機能しときに不全に陥っているとは、小生にとって少々驚きであった。と同時に、児童虐待死はしばらく減少しないのではと、暗澹たる気持ちになった。

「児童相談所」という機関は実際にどう機能しているのか、愚生自身にも認識不足な点が数多くある。特に、虐待児童を迅速に見つけ、保護するという一連のシステムは、最終的にはプロフェッショナルなマンパワーに頼むしかないということが分った。

当面の課題は、法整備よりも予算の充実であることが、彼らの討論を通じて痛感した次第である。しかし、それだけで済む話ではないし、もっと他に本質的なことが隠されているのかもしれない。

そのほか、番組をみての自分なりの問題点や疑問を挙げてみたい。

●児童に関する相談をうける機関だが、「いじめ・虐待」の相談から市民からの通告をうけるが、「子どもを守る」機能・キャパシティ(施設・陣容)は充分といえるのか?
●「児童相談所」の権限は、法的にいかなる制限があるのか。どこまでが裁量範囲で、何が不能なのか? 親からの強い抗議があると、簡単に子どもを引き渡すのは何故だ? 透明性が全くない。
●「虐待児童」を保護するとき警察との連携はどうなのか? 警察側の対応は、その機能や人員は適正に行える態勢にあるのか? また、それらは全国共通か?
●「児童相談所」に待機する児童福祉士、社会福祉士は、地方公務員であるが平均在任期間は5,6年だという。プロフェッショナルとしての職務を果たせる環境にあるのか?
●「児童相談所」は、施設・設備・人員・服務既定などにおいて、「基準」なるものは全国で同一レベルなのか? 地域差とか陣容・施設規模によって異なっても、機能に差はないものだろうか?

●仮説というより単なる私見だが、「児童相談所」の実行力が、地域差あるいは濃淡がありそうだ。地方都市では、子どもが少ないから「児相」のパワーつまり手厚い福祉や見守りがしっかりしている。そのために、虐待のある家族ではそれを威圧と感じ、DV等の隠蔽や児童保護から逃れるために、人口の多い大都市に移住する。都市部の児相」ではそうした案件を数多く抱え、処理能力を超えているので、対応・フォローアップ力は十分ではない。ちなみに、去年の目黒、今年の松戸における虐待死事件は、そのケースに当てはまる。

 

 

▲陽気のせいか、小さいが花芽が確認できた。

▲美しい花芽かと思ったら、これは実であった。実も花芽も子どものようなもの。棘や茨で守られているのは自然の摂理である。

▲しばらく見ていないと、いつの間にかだ・・。慈しむものを発見すること、気づくこと、大切なんだなと思う。


ものの芽や塞ぐ心根開け放ち

仙人掌の分け入ってみる小さき芽



追記:再録であるが、去年安冨歩先生が東松山市長選において、マスコミに向けた公式メッセージのユーチューブを載せる。

子どもと暴力がなぜ結びつきやすいのか安富先生の市長選立候補のメッセージに端的に言表されている。危ういこの日本社会で、人間つまり老若男女は様々なフェーズで分断されている。それは一般的に、経済的要因として認知されるのが普通なのだが・・。安富先生は違う、もっと根源的な魂の部分として還元し、人々に訴えている彼は一切の権威として顕われる暴力を、全否定している。

そこが愚生と違う点ながら、目ざすべきイメージは共通のものがある。愚生が考えるに、誤解を招きたくないのだが、伝えるべき知識、その愛に満ちた「力」・「強さ」は、ときに「鞭」の粗暴さを伴なうのではないか・・。いつか彼と、とことん話し合うことができればと願っている。(2019・2・25記)

ぜひとも参考にしていただきたい。

 


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