小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

どうしても、まだ拘る

2016年08月05日 | エッセイ・コラム

 

いまだにこだわっている。

相模原市障害者施設における植松聖の犯行には戦慄を覚えた。障害者だけを対象にした大量殺人は、世界的にも前代未聞の酷(むご)い事件ではないだろうか。障害者施設、その現場で働いていた元職員が、40人以上の重複障害者を殺傷するのは如何なる理由なのか。その動機とはなにか。憶測、仮定は許されない。我々だけでなく世界の人々にも分かるような徹底的な調査と解明が求められている。

植松聖の個人的な犯行とはいえ、その衝撃的犯行のエネルギーを一貫して後押ししたのはナチズムの優生思想だと指摘する声が多数あった。

障害者の存在は社会保障の足かせであり、経済成長を阻害する大きな要因だから排除されるべきだ・・・。(もの凄い誤解に基づくものだ)人間をただ<効用価値>の面から、業績の面からのみ評価する。

ナチスはかつて、人間を効用価値として見なし、システム・機関の一材料としての価値しか認めなかった。人間の尊厳性を評価する基準はアーリア系ドイツ民族、それも青い目の金髪の人間を優生とする。それ以外は人間として劣性であり、心身に機能減損があるものは排除される。まさしく、人間をモノとして恰も機械の部品として見るような、極端な似非科学思想が練り込まれていた。この思想を堂々と掲げ実践し、遂にユダヤ人のホロコーストに到達した。(世界にはこの事実をいまだに認めない人間がいる。そういう人間が全地球で何%いるのか、想像してみる自分自身が気持ち悪いし、怖い)

(※優生学そのものを哲学的に問いなおしたいところだが、科学的根拠の立証そのものが不可能だからまともに議論されてこなかった。ネット上には「正しいか、間違いか」など、立論そのものが不毛なものが多い。いつか考えてみたい)

彼らはホロコースト以前に「T4作戦」と称して、障害者や難病の患者を集団死させた。事実が発覚したのは戦後になってからだ。1939年から1941年8月までに、約7万人の障害者などが「生きるに値しない生命」として抹殺されたという。(1941年までとされるがそれ以降も暗黙裡に行われていたらしい)(蛇足だが、デンマークのミステリー作家ユッシ・エーズラ・オールスンの処女作「アルファベットハウス」は警察ものでもなく、このナチの精神病院での非人道性がメインテーマ。エンターテインメントとしても一級の面白さだ)

この歴史的事実の詳細を不覚にも最近知ったのである。(日本障害者協議会の代表・藤井克徳氏はEテレのドキュメンタリー、つい最近この事件をうけて「ビデオニュース」にも出演した)

▲(藤井克徳氏の問題提起をふくめ、ジャーナリストの神保哲夫がコンパクトにまとめている)

 

障害者をはじめ難病者や高齢者など社会的弱者を排除しようという、優生学に基づくもの否かは知らないが、わが日本にも根深くあるらしい。いまや水面下で囁かれているとは言えない状況ともいえる。特に、社会的地位の高い人が、耳を疑うような発言をすることがある。

いわゆるタカ派の論客、最近では石原慎太郎や曽野綾子のような政治家、文人、そしてネット上のネトウヨと言われる人々。また、東大医学部出身で国立がんセンター等に勤務し、一般向けの著書も複数出している医師・里見清一氏なども、「『能率的に死なせる社会』が必要になる-建て前としての“命の平等”は外すべき」などという発言を堂々と披瀝している。彼らはオピニオンリーダー、つまり大衆の代弁者として発言しているのだが、如何なものか。

思想・表現の自由は憲法で認められているとはいえ、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という第25条を蔑ろにする発言は慎むべきであり、それを踏まえつつ、あえて発言するものは厳に容認できるものではない。

 

さて、先日、週刊朝日にこの事件をどう捉えているか、3人の専門家の意見が掲載されていたので、自分用にダイジェストを書き留めておく。

 ▼現実の自分と理想とする自己像との間に大きなかい離があり、それをなんとか埋め合わせる願望が引き起こした。ヒトラー思想は本気で考えてはいまい。それは後付けであろう。自分なりの合理性・ロジックがあり、自己表現としての犯行につながった。薬物の影響も見逃せない。   東洋大学社会心理学教授  桐生正幸氏

▼何らかの精神障害、妄想性障害や薬物性精神病性障害を感じさせる。1996年の池袋事件に類似していて、世間への不満や社会に対する恨みがあるのか・・。統合性失調にからむ奇異な思考、誇大妄想があり、施設への恨み 被害妄想などが絡んでいるといえる。植松の犯行は衝動的でなく計画的である。責任能力はあるし、彼の社会的機能は一定しているといえる。大麻の陽性反応と大量殺人は結びつきにくい。犯人がうけた措置入院は、現在フォローアップの仕組みが全くなく、警察・司法の丸投げといった状態で、その改善が必要だ。また、退院後の強制通院は難しいし、 精神疾患を抱える者を監視することは大きな課題として残っている。    昭和大医学部精神科医  岩波明氏

 ▼精神障碍者が暴力行動に出る確率は健常者よりむしろ少ない。その多くは引きこもりがちの傾向があるので、今回は突出した異常があるのでは・・。措置入院はふつう妄想性障害を診断するが、現時点での事件の情報では医療が有効か、そもそも医療対象の病態などか不明である。ヒトラーの優生思想を言っている様だが、それが 妄想なのか判別できない。参議院議長への手紙を読む限り、植松自身の高い自己評価、自己確信の強さ、特権者意識が見え隠れしている。池田小事件の宅間守や秋葉原大量殺傷事件の加藤智大のごとく、加害者は「正常ではないが病気でもない」といえる。理解を超える行動であることは確かだ。心配なのは精神障碍者や薬物依存者への偏見・差別が増長されはしないかということ。今年4月に障害者差別解消法施行されたのに、以前に逆戻りするような風潮・影響がないことを祈る。  国立精神・神経医療研究センター 薬物依存研究部部長  松本俊彦氏

以上三氏の意見を要約した。ヒトラーの優生思想が植松聖に直截には影響をあたえていないという見方をしている点では共通している。というより、今後の障害者への影響、社会の対応を危惧していて、植松聖の精神性については詳しく語ることができないのだと思う。

 

とはいえ、本気で言ったかどうか分からないが、植松自身は友人に「ヒトラーが降りてきた」と語ったらしい。真偽はともかく、優生思想というものを認識していたことは事実であろう。

「重度の障害者を安楽死させることが社会の発展になる」などのような発言は、まさしく効用価値を重視し、弱者を排除する優生学そのものだ。彼が措置入院から出て4か月間の行動が不明だそうだが、その間にどんな準備、思想構築を企てたのだろうか。人間の価値を計ることはできると、何処で思い込んだのか。誰かに吹き込まれたのか・・。

戦後のドイツは国が二分され、戦争に対する贖罪と自省を、国をあげて取り組んできた。もちろん、ナチズムは封印された。にも拘らず、いまだにナチズムの亡霊のような、「ネオナチ」の動きがある。日常的な不安と、うっ憤を貯めこんだ若い人たちが「ネオナチ」に入る。何故だろうか、「ネオナチ」的な動きは、ドイツだけでなく世界のあちこちで散見される。

先に書いたように、人間を効用価値としてしか見ない、その機械的なシンプル思考の分かりやすさが人を引き付けるのか・・。「自分たちは優れている」という安直な思い込みは、目に見える弱者をいとも簡単に蔑ろにできる。人間の尊厳や価値を秤にかけるような傲慢さも、自然に芽生えてくる。

「われわれ自身の中のヒトラー」を書いたマックス・ピカートはこんなことを言っている。

「 ナチスの犯罪が、まるで工場の生産が増加するみたいに驚異的に累積するのは、そのためである。いわば残虐行為の量は、たとえて言えば輸出の量のようなものだ。…だからナチスの残虐性は、ちょうど輸出量をあらわす数字のように、簡単に忘れられてしまうのである。・・・ナチスの残虐行為は、いわば工場の装置から、あるいはすっかり機械装置と化してしまった人間から、発生しているのである。」

 

現在、この事件に関して、警察が被害者名を非公開にしたり、植松側の情報量が不足するなど、事件そのものを把握・検証する手立てが少ない。

私は、植松聖の極端な「利他志向」を、異常と思っている。たとえば「世界平和のために」とか、「施設の職員の生気のない目をなんとかしたい」、「日本の将来のために、重度の障害者を安楽死させたかった」などと、犯行の動機を、「利他的」な目的と正当性を誇らしげに語っている。このことだけでも精神のバランスを欠いた発言だが、心神耗弱とまではいえないと思う・・が、どうか。

「やまゆり園」という障害者施設に就職した動機も、障害者の役に立つことであり、社会に貢献したいという理由からである。今どきの若い人には珍しく、「利他性」をことさらに強調していることに、私は不信を抱く。ふつう若者ならもっと「利己的」にものごとを考え、行動しはしまいか。なにか意識的に「利己心」を封印した、そんな不自然な精神の動き、バイアスを感じるのは私だけだろうか。これからの裁判では、たぶん精神鑑定が弁護士から請求されるであろうし、彼の内面性に照射が当てられるはずだ。このことに注目したい。

 

さて、障害者は先天性の機能障害より、後天的な交通事故、疾病、過失事故などによる障害が多いのではなかろうか。今後、憲法改定がなくとも安保法制の改悪により、戦争参画による自衛隊員が障害者になるケースが増えるであろう。彼らもまた「社会保障費の銭喰い虫」として厄介者呼ばわりされるのだろうか。 植松聖のいう「障害者は厄介者」だという認識が、この日本に根深くある現在、自分が障害者になる想像力を枯渇させてはならないと考える今日である。

※障害者は、先天性と後天性でどちらが多いか。国別のデータはあるのか。今のところ調査中。ただ、障害発生時の年齢が0~3歳は約10%だとされる。それゆえ、先天性の身体障害者は10%以下と推測されるとのこと。つまり一般的に言われることでは、圧倒的に後天的な要因により障害者となるケースが多いということだ。

 

▲九段下にあるしょうけい館・戦傷病者記念館。ここでは、戦争がいかに馬鹿げたものか身に沁みる。戦争こそ多くの障害者を生みだす根源だ。昭和30年代まで、繁華街や駅前には必ず、軍服や上の写真にあるような白い服を着た元日本軍人がたくさんいた。こんなに凛々しい姿は嘘である。みすぼらしく、子供でも彼らに悲哀さを感じたほどだ。誰彼となく手足がないのが異様で、初めて見た子供はたいてい泣き出したはず。親に言われたか、からかう言葉をぶつけるものもいれば、前に置かれた空き缶に投げ銭する子供もいた。

 

まだまだ語りつくせない。が、ひとまず筆をおく。

「人間は、自分が真理でもって埋め尽くすことのできない言葉の空隙を悲哀でもって充たすのだ。そのときの悲哀は言葉を沈黙へと拡大してゆくことができる、・・そして、そのなかで言葉は消え失せようとしている。」

    マックス・ピカート「沈黙の世界」より

 


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