小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

パラリンピック観想

2016年09月19日 | エッセイ・コラム

 

パラリンピックがきょう終わった。熱心に見たとはいえないが、様々な競技を見て胸にせまってくる静かな感動を味わった。人間の身体がもつ、無限の可能性にも感じ入った。

選手たちがめざすもの、伝えたいものは健常者のアスリートとまったく同じだと思う。身体の動きはもちろんだが、心の躍動美みたいなものが、どの競技、選手をみてもひしひしと感じとれた。失った身体、機能は、テクノロジーでおぎなう。見えなくとも、見えるものとして新たな用具やルールを作る。なによりも裏方にいるボランティアの手厚いバックグランドがある、そのことが心強い。

また、出場したアスリートたちは勝ち抜き、選ばれた人々だが、彼らはつねに誰かに感謝している雰囲気を漂わせていた。特に、しのぎを削り、彼らを送り出し、支えている多くの仲間がいて、母国から熱い声援をおくっていることを想像した。パラリンピックのきれいごとを論う気はさらさらない。が、リオのそれは、障碍者が楽しむスポーツの花、世界に向けて咲く大輪の花のようなイメージをもった。

オリンピックそのものは、本来のクーベルタン精神(※)から逸脱して、国威発揚や商業主義にまみれてしまっている。ドーピング問題や経済的負担の大きさも見逃せない。反対の声もいろいろ聞くが、開催が決まった以上、東京でのオリンピックは素晴らしいものになるよう祈りたい。(マスコミ主導のメダル争い報道は日本特有らしいが・・)

さて、話題がつながるか心もとないが、パラリンピックを見ながらいろいろ考えた。考えるというより、感じたというべきか。幼い頃に悲しい闇(一家離散)をみて過ごし、心が変節しバイアスで変形した私からすれば、パラリンピックにおける彼らの動き、歓び、笑顔は羨ましいかぎりの一言しかない。とはいえ、障碍者と私たちの間にどこに差異があるのだろうか。この世界をどう感じるか、どう認識するかは、私たちの魂の営みといって間違いない。それは彼らにしても同じことで、すべてのバリアフリーを実現せねばならない。

ハンセン病や重篤な精神の障碍を持つ方々を、社会から隔離して見離してきた時代は、いまだ過去のものとして清算されてはいない。最近の、障碍者への集団殺戮があったことにも考えを及ばすと、4年後のパラリンピックは果たしてバラ色で迎えられるか・・。この目で見られるかどうか分からないが、生の感動を味わってみたい。


(※)クーベルタン精神つまり本来のオリンピズムとは、「肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造」とされる。すなわち、個人に対して向けられたメッセージであり、国や共同体に対して発せられてはいない。オリンピックは国家間の代理戦争でもないし、国別のメダル競争によって国威を発揚させるとか、ガバナンスに利用するのは全くの間違い。パラリンピックにしても同様であろうが、定義になんらの差異があるかどうか、私には知見がない。(ナチスのオリンピック運営が今も踏襲されているのは何故か?)

 



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