筆者は小さな魚である。他の小さな魚と同じ、食べられてしまう運命にある。大きな魚に呑みこまれる小魚。いや、ひょっとすると雑魚でしかなく、小魚の格好の餌食かもしれない。
大きな魚は、さしずめ安倍晋三だろうか。いやいや、地域の町会長ほどの大きさの魚でしかないかも。
この絵はネーデルランドの画家、ピーテル・ブリューゲル1世( 1525/1530~1569)の版画(エッチング)である。20代初期の頃の作品で、この時代にあっては彫版の制作者であるピーテル・ファン・デル・ヘイデンの方が地位は高かったという。
絵の題名は、「大きな魚は小さな魚を食う」。ネーデルランド或いはフランドル地方における、誰もが口にしたであろう諺を題材にした絵とされる。「弱肉強食」や「長いものには巻かれろ」という日本の諺とは近くて遠いか・・。つねに搾取される側の庶民がもたざるをえない諦め、あるいは「奢れるもの久しからず」といった人生の教訓。それらの寓意が、この大魚の腹を切り開く図柄に如実に表現されている。小さな魚は農民で、大きな魚は領主か。この魚たちを釣ったりさばいている人間たちがいる。最終的に食べ、舌鼓をうつのは国王か、それとも教皇か。
宗教改革のルターや「痴愚神礼賛」を書いたエラスムスはネーデルランドの出身。彼らが生きた15,6世紀は、宗教戦争とグローバリズムの混乱の時代であった。プロテスタントへの弾圧、教会の腐敗、農民の反乱、疫病、移民。一方でルネサンス、人間性の開放、大航海にともなう異国の文物の流入。この時代は、ネーデルランド、フランドル地方だけでなく、ヨーロッパ全体が不穏な空気と自由への渇望が渦巻いていた。また、グーテンブルグの活版印刷の発明も、人々が聖書を母国語で読めることになった。我々が体験したことのない意識革命が進行していた時代ともいえたのだ。
ブリューゲルは20代でイタリアへ修業に行き、ルネサンスの胎動を目の当りにした。ダ・ヴィンチやミケランジェロらと同時代人であるから、実際の創作現場をみたことも考えられる。彼は故郷に戻ると、宗教を題材にした奇妙な寓意画、農民たちの日常、群衆画を描いた。その作風は約1世紀前の同地方の異端画家、ヒエロニムス・ボスの精神を継承する不可思議かつ謎にみちたもの。美術史においては、ルネサンスのマニエリスムという独創のカテゴリーに位置づけられるが、正統なる評価は惜しいかな少ない。
キリスト教美術の極致を知る人なら、忌避したい陰惨なテーマ、目を背けたいグロテスクな素材が扱われる。さしずめ魑魅魍魎が跋扈する、狂気の宴会、奇想の絵図である。いずれもが筆者自身の指向する美意識にうったえる絵画ではない。しかし、何故か魂の奥底で共鳴するものがあるのだ。禍々しいものをさらけ出すことこそ、人間の本質に迫ることができる。屈折したヒューマニズム、そこにも美学があるのだと教えてくれる。
ボスとブリューゲルは、人間や怪物、神や悪魔、天使、動物なども、すべてを群像として描きこんだ作品が多い。全体があまりにも煩雑に見えるので、絵の一場面をクローズアップして鑑賞することになる。そこには寓意なり暗喩にみちた図柄・造形物が際立つように描かれている。かなり粘着する仕掛けで、絵画の中に映画をみているような錯覚、眩暈をおぼえる。まるでデヴィッド・リンチの映画のようだ。
後期のブリューゲルはさすがに生々しい表現は後退し、農民たちの日常生活を描くようになる。現代にも見られる田園風景、そこで営まれる農民たちの暮らし。だが、それらの光景を仔細に見ると、震撼する仕掛けやメタファーが隠されている。宗教画のテーマにある「イカロスの失墜」という作品では、当のイカロスは見えないし、海の風景にとけこむ普通の人が歩く姿しか見えない。(海に没した後の、イカロスの片足が垣間見えるほどにしか描かれていない)。
落ち着いた色調、統制とバランスのある構図など、荒れた時代環境が沈静化しつつあったのか。後期のブリューゲルは、そのほとんどが落ち着きと冷静さが支配している。来たるべくレンブラントやフェルメールを予感できるか・・。筆者はまだ正鵠を射るようなブリューゲルの解釈に遭遇したことはない。宗教社会学のような視点が求められると思うのだが、どうか。
▲ブリューゲルの真筆ではなく、一門の弟子の模写らしい。右下にイカロスの足。
縷々書いてきたが、先日、都美術館で「ボイスマン美術館所蔵・ブリューゲル・バベルの塔」展に行った故の拙い感想である。今年1月から4月まで「画家一族150年の系譜・ブリューゲル」展(ピーテル・ブリューゲル1世からひ孫のヤン・ブリューゲル)を見逃していたし、今回の特別展はボスの油彩作品と同時代の絵画・彫刻も展示されるというので、是非とも行きたかった。平日にもかかわらずの盛況は、やはりブリューゲル2作目の「バベルの塔」の関心が高かったせいだろう。(※追記)
来週からは西洋美術館で「アルチンボルド展」が開催される。若冲に続き、今年も上野の芸術の森には、奇想の画家たちが立ちまわっている。
共謀罪がはやくも施行されるらしい。政治的情況に現をぬかすより、スタティックな美の世界に埋没するほうが賢明か・・。
中野孝次の「ブリューゲルへの旅」を再読している、齢を喰った後では、別物の本に思える。本は湖底に沈むマリモのようなもので、年月を経て掬ってみると成長するのだ。もちろん腐って、読むに堪えない本もあるだろう。その辺の見極めはあるつもりだが、どんどん処分しろと云われるのは辛い。
ゴーギャンの私的探索やエーコの美学論も少しずつ進んでいる。今年は美の蛸壺にはまって、芸の術に耽溺しようか。
▲「死の凱旋」の部分
▲原寸を300%拡大した芸大による精確な複製画は素晴らしい。TV番組で見た大友克洋のバベルはなかった。(※2)
▲ガラス窓に貼られた、ブリューゲル的異形のモチーフ。