小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

モンテーニュと、ベラスケスの間

2018年06月21日 | エッセイ・コラム

 

前回の『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』で言い足らなかったことにふれる。

改宗ユダヤ教徒のことをスペインではコンベルソといい、ベラスケスの家系でもそれは連なる、と著者・大高保二郎は示唆していた。

この指摘はたいへん重要である。というのは、異端審問がとりわけ厳しいスペインにおいて、改宗したといえども常に監視されるかのように、疑いの目でみられるのは当然だったからだ。そうした目に見えない圧力を、少年ベラスケスは敏感に察知していたかもしれない。

1492年、スペインは「レ・コンキンスタ」(複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服)を宣言した。世界史的な重要事項である。

それ以前、イベリア半島はイスラム教徒が支配していた。ヨーロッパ大陸の半島といえども、ピレネー山脈という高い壁に遮られ、イスラムのウマイヤ王朝は800年ものあいだ栄華と安泰を誇っていた。

キリスト教徒たちがそれを由とするはずがない。十字軍遠征の成果もそれなりにあった。

▲セビリヤの大聖堂。カテドラルでは世界3番目の大きさ。ここにはかつてモスクがあった。ほんの少し片鱗はあるか。

▲セビリアの観光馬車


捲土重来は中国だけのものではなかった。イベリア半島において、キリスト教徒は、念願の領土回復まさに捲土重来を果たしたのである。その1492年、コロンブスが新大陸を発見した記念すべき年でもある。

この年を境に、イスラム教徒は北アフリカ諸国へ、ユダヤ教徒は船に乗って東ヨーロッパに向かうざるを得なかった。ピレネー山脈を越える陸路では、フランス、イタリアでのカトリック教徒からの迫害は熾烈だと聞こえたはずだ。だから、人々は地中海をめざした。


裕福な人が多いユダヤ教徒のなかには、国外に逃亡する人々もいれば、改宗する人、改宗したふりをした隠れユダヤ教徒もいたという。異端審問はそのために生まれ、17世紀になってさえその厳しさは緩まなかった。

件の『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』において、「コンベルソと知の系譜」なる節があり(239p)そこには以下の記述がある。

思い起こせば、『随想録』の著者ミッシェル・ド・モンテーニュ(1533~92)も、『倫理学』の哲学者パルフ・ド・スピノザ(1632~77)も、ベルジュラック(南仏)、アムステルダムと、それぞれピレネー以北の地で生を享けながら、ポルトガルやスペイン系ユダヤ教徒の血を受け継ぐ家庭に育った偉大な知性なのであった。

スピノザの祖先はスペインから逃れたユダヤ教徒であり、オランダに落ち着き先をみつけたマラーノ(改宗ユダヤ教徒)だった。もっともスピノザ自身はキリスト教に改宗し、隠れユダヤ社会からドロップアウトした異端児(その孤独が、当時の先端テクノロジーのレンズ研磨および哲学的思索に向かわせたのであるが・・)。

そう、わがモンテーニュもまた、改宗ユダヤ教徒コンベルソの家系に連なることを、大高保二郎の『ベラスケス』で知った次第なのだ。

『随想録(エセー)』には、それを具体的にしめすエピソードはなかったと記憶している。まあ、筆者・私の記憶力はあてにはならないが・・。

その他関連書では、父親、祖父の家系は、ボルドー県の貴族あるいは知事、ときに王室付侍従をつとめた由緒ある家柄であることが、おおかた記されている。しかし、母親の家系について触れたものは少ない。モンテーニュについて書かれたものは夥しい数があり、筆者は7,8冊ほど所蔵しているが、家系を遡って厳密に調べたものはない。


白水社・文庫クセジュの『モンテーニュとエセー』(ロベール・オーロット著)に短いがこんな記述があった。

彼(モンテーニュ)の母は、イベリア半島から追われ、カトリック教徒への改宗を装った(マラーヌ)ユダヤ人たちの子孫だったのだろうか。それは、はっきり証明されてはいないが、おそらくそうであり、時折りひとはそのことによって、彼女の息子の自分自身についての例外的な明察の能力を説明してきた。

「おそらくそうであり」は無責任である。訳者はいちおう著者か出版元に問合せするか、確認する作業をしてほしかった。

モンテーニュは、ベラスケスより70年ほど前にフランスで生まれ、貴族らしき家柄のかなり裕福な家庭で育った。しかし、当時は怒濤の宗教戦争のまっただなかであり、主君アンリ4世の王室侍従でもあったモンテーニュは、地元の領主として民衆との間にたち、平和に治まるよう調停などに奔走した。

彼は折をみて、なんら問題を残すことなく38歳で引退。自分の城に引きこもって『随想録(エセー)』を書くこと、それが唯一の愉しみとなった。

我書く、我を書くゆえに我あり」、そんな心境であったろうか・・(書くことに我の存在を見出しているのではなく、自分を書くこと、自分が描けることに主体的価値があるのだ。訂正した)。モンテーニュのエセーには、自由な精神はもちろん、書くことに没頭する愉しさが横溢しているのはいうをまたない。


一方、ベラスケスの「描く」ことのアイデンティティと「愉しさ」はどうだろう。

以上、縷々書いてきたことの延長に立ってみれば、独りで画布に描く孤独の時間よりも、絶対の君主に恭順をしめしている時間の方が、ベラスケスは男としての安寧をえられたと思わざるをえないのだ。

大高保二郎は、ベラスケスを「宮廷のなかの革命者」としてみた。筆者はそれを批判するものではない。

だが、宮廷内の絵画その革命者というよりも、己れの出自と家族そのすべてを魂を込めて守ってきた。そんな男だったという感慨が深い。確かに「画家のなかの画家」だったが、彼にとっては、それが最高の賛辞だったかどうか・・。

そんなことを梅雨の音をききながら、わたしは書いている。

 

▲セビリヤには都合1日未満しか滞在しなかった。市民公園にある、この大木になぜか感動し、モノクロ・モードで撮った。なぜだか、想い出せない。


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