小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

心のなかの暴力、刃 ①

2022年06月01日 | エッセイ・コラム


「どーか誰にも見つかりませんようにブログ」というブログがある。いま私を刺激し揺さぶってやまない。哲学・思想・歴史から芸能・音楽・事件風俗など硬軟・古今東西をとりまぜた、多彩なジャンルに言及している個人ブログだ(左側の「ブックマーク」にリンクあり)。
単発の重厚な記事があれば、シリーズ化したもの、何年にもわたり追求されているテーマの記事もある。

それらが毎日休まず書かれ続けていて、たいへんに胆力のある書き手だと思う。とはいえ、たいへん長文の記事が多いので、内容によっては、おいそれと気楽に読めないのが難点ともいえるか・・。

たぶん、一回り半ほど年下の男性であるが、小生が書くものよりその叙述レベルは濃密で精確、プロの書き手といってもおかしくないほどだ。
真面目な方には違いないが、80年代の若者を代表する尾崎豊世代だと自認されている。また、ブルーハーツのロック魂やプロレスの格闘技、映画など昭和後期のサブカルチャーの話題にも詳しく、さらに小生の世代にも通じる考察をくわえ、楽しく読んでもらいたいというサービス精神もある。柔軟でユーモアを解する人物だとおもう。そのブログの主の名前が「メロンぱんち」、この命名からでも、柔らかい感性の持ち主だとお判りいただけるだろう。

さて、2,3日前に彼が「暴力について」という記事をのせた。アルフォンソ・リンギスというアメリカの哲学者の著書『暴力と輝き』(水声社)を手掛かりに、暴力を個人的にアプローチした記事である。ウクライナ対ロシアを想定する「戦争」ではなく、人間が本来もっている「暴力性」とは何かをテーマにしている。(この分野の思想は、一昔前はフランスを中心とした西欧哲学が本流であったが、現在は英語記述、多文化主義がモットーのUSAの大学が主流で、そこに集まった国際的学者たちが、思想学界を席巻しているようだ)。

まあ、フロイトやカント、さらにレヴィ=ストロース、ピエール・クラストルなども引用されているらしいのだが、のっけから三島由紀夫の『金閣寺』を読み解いていて、主人公の内奥に潜む暴力性なるものを探求しているらしく、とても興味深い。「メロンぱんち」さんはこの書の213Pから、以下のリンギスの言葉を引用している。

暴力に分別などない、とわたしたちは言う。ところが暴力とは、知りたいという強い欲求であると同時に、知ることの喜びでもある。
人間に向けられた暴力は、人が自分を隠し偽るためにまとった衣を切り裂き、あいまいな言葉でしらばくれるような会話を断ち切り、見せかけや偽善を暴き、真の衝動や感情を露わにさせる。
暴力は、敵の強みや弱みを、彼や彼女の勇気や臆病を、悦びや恐れを明るみに出すのだ。(213頁)

ストロースやクラストルらの文化人類学者を引用されているように、暴力を一口に攻撃性、破壊性などの負の側面のみをとらえるのでなく、あくまでも人間の個人的なものとしての視点を語っている。これは、ハンナ・アレントやベンヤミンらが追求した問題を想起させる。(上記のリンギスの引用では、勝手な推測だが、暴力に付随する快楽論「サディズム」のニュアンスを、「メロンぱんち」さんは示唆したいかのように思われる。それは、前回、前々回の記事ともつながり、彼のブログは毎回読むほどに深掘りできる面白さを内包している。ゆえに、敷居が高い、ハイブローな印象をあたえるかもしれない。追記)

すなわち、人間が本質的にもつ「暴力性」は、所与として個人のものであるが、それらは権力の手に組織的に収奪された。あの暗いファシズムの時代には、個人の尊厳ともいうべき一つの「暴力性」さえもそぎ取られ、「人種差別という別種の暴力」が加えられたのである。

実は、小生はこの記事にコメントを書かせていただいた。かみ砕いて書いたつもりなので、より分かりやすくするためにその一文を転載したい。

ホモサピエンスの歴史が仮に100万年と仮定して、現代人の暴力性はかなり洗練されてきたと考えます。
洗練とは制御され、内面化(宗教化)ほどの意味ですが、大昔の人類はかなりの暴力性をそなえてサバイバルしてきた。そう考える方が自然な気がしますが、どうでしょうか。食べるために大型動物を狩猟したり、異人種(たとえばネアンデルタール人)とのテリトリー争いなど、石や金属の武器を使って倒すことは、原初では日常であったはずです。
私たちのDNAには、敵や獲物を殺傷するために磨かれた「暴力」の本能が組み込まれたに違いない。感情や理性をこえる圧倒的な攻撃本能は、種としての人類は当然ありますが、「個人」の領域においても「暴力」は何かの拍子で発火するのではないか・・。

さらに、これに補足したいのが、一昔前に熱心に読まれたルネ・ジラールという哲学者の考察である。思想家兼翻訳者の中山元氏の平明な解説があるので追加したい。

共同体の内部、あるいは境界で緊張と敵対関係が避けがたく発生する。ひとつの暴力がおき、さらに報復の暴力がつづく。
この連鎖をどこかでたちきらなければならない。共同体はそのための供犠という暴力が対象を選びだす際に、その対象は暴力の原因と関わりない身代わりでもいいだろうと。この供犠のメカニズムは、荒れ狂う暴力を浄化された暴力が収めるメカニズムだとジラールはいう。

 

「メロンぱんち」さんは以前、『ナパニュマ』という10回にわたるシリーズ記事を書かれた。これは11歳の西洋人少女(ナパニュマ)がアマゾン奥地に暮らすヤノマミ族に囚われ、その一族の酋長の妻となり4人の母となった実話をもとに、「メロンぱんち」さんは、彼女(ナパニュマ=エレナ・ヴァレロ)の成長譚と、反文明的な先住民ヤノマミ族の生活や神話世界などを文化人類学的に読み解いた記事であった。

ここでは人間の本来的な「暴力性」が文化人類学的に語られるし、メタジェンダーな未開社会と今日性の比較も展開される。読み物として秀逸な面白さなのだ。

当初、この記事は数回で完結する意向があったらしいが、小生がそれはもったいないとし、多角的視点から書けば文明論、文化人類学などに奥深い記事になると、あえてシリーズ化してほしいと要望したこともあった。

「メロンぱんち」さんはそれに応えてくれ、10回の『ナパニュマについて』に結実した。下にリンクを貼ったので、興味のある方はぜひとも覗いていただきたい(初回をのぞいて、小生はほぼすべてに感想やら個人的世迷言をコメントさせていただいた。そのすべてにレスポンスを返され恐縮した。(丁寧で律儀な氏のお人柄でもある)。

『ナパニュマについて』 http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/52160499.html

 

かつてベンヤミンは、無軌道な暴力を浄化するメカニズムを「神話的暴力」とよび、実際には正義とはほど遠く、人民を統率する、コントロールする「権力体制」の暴力に通底すると論じた。つまり法制度化して暴力を鎮圧なり浄化するけれども、「警察」あるいは「軍隊」が暴力に集中し、社会の成員を構成する市民にたいして、得体の知れない暴力の牙を向ける。

ベンヤミンは、正義の、「神」的な暴力を創りだしたかったのか? 暴力を止める暴力とは戦争のことなのか? いみじくも小生は、暴力は人間と人間との対立のなかで生まれ、それは原初的なものがあると認識している。レヴィナスも同じようなことをいっていて(※追・別記)、それを多少かじっていたから、「メロンぱんち」のブログに刺激されてコメントしたのかもしれない。

「暴力について」の最後で、「メロンぱんち」は以下の言葉で締めくくっている。

そして暴力は連鎖する。どうしようもないぐらいに連鎖する。次から次へと、軍神や武神をつくっては、後発の者たちは、それに続こうとする。
そして後発の中には既出の軍神や武神の武勇をも超越しようとする者が現れる。何故なら人を衝き動かしている主たる要因は報復(復讐)と憎悪であるから。
「やられたらやりかえす」のエンドレスな繰り返し。それら流れの中で、暴力によって輝いた人物は、自ら伝説の人物になろうと企図することになるのだ。

追記(2022.6.1):上記の引用について、メロンぱんち様から「そちらの記事、拝読いたしました。有難うございました。字数の関係で少し書き残したところがあるかも知れません。結文に「戦争は国家が始めて、戦争を終結させられるのも国家である」という主旨の事まで触れたかった(笑 プーチンは典型的な権威主義的専制主義者でポピュリストでさえありませんが、ゼレンスキーの方にポピュリストという評があるのは気になりますね。戦争を停戦させる、終わらせる判断は、おそらくゼレンスキー個人の委ねられてしまうのだろうか、と。」との連絡があった。結文をそのまま引用したのだが、こちらでも全体の文脈を損なわないように引用箇所を拡げたり、自分なりの要約をすべきだったかもしれない。しかし、勝手に要約するのも失礼にあたると考え、この追記の氏の文章をそのまま載せることにしました。読者の方には、下記のリンクから本文を参照し、氏の主旨を解釈いただくようお願いいたします。また、メロンぱんち様には多大なるご迷惑、ご足労をおかけしたことをここに深謝いたします。

「暴力について」http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/52161786.html#comments

 

なお、個人がもつ暴力、その発現について、象徴ともいうべき「刃」に言及したかったが、長くなりそうなのでいったん筆をおくことにする。

その理由は、「斬り死」というテーマにも触れられ、個人のもてる純粋な暴力としての「刃」を論じてみたいのだが、だらだらと書くような予感があり、整理し論点を明確にして改めてチャレンジしてみたい。

おまけ:ヴィジュアルがないと淋しいので、散歩に行ったときに拾った梅の実をのせる。始終、いまも甘酸っぱい匂いを発している。ヒヨドリに突っつかれて落下したものばかり。そんな芳しい匂いを楽しみながら「暴力」を書いている爺がいる。平和であることは間違いない。世界的な流行の兆しがあるという梅酒でもつくってみるか。

 

(※追・別記)人間と人間との二者だけの関係において、それは純粋なかけがえのない関係、親密性があることは確かである。メタジェンダーでもある。しかし、社会においては、この二者だけの関係性だけで構成することはできない。とうぜん、第三者が介在して、それぞれの関係性を結ぶことを欲し、それぞれの親密性が生まれる。そのとき、二者つまり「私とあなた」の間の親密性は、他の誰かとの親密性にどれほどの差異があるのか違いが分からなくなる。これによって、「私とあなた」との親密性が傷つけられる。傷つけられる、傷を負わすことは、ひとつの暴力である。というように、エマニュエル・レヴィナスは、「人間と人間との関係において、暴力は原初的にあるものだ」といっている。社会の深奥に暴力があれば、他者との愛との関係においても暴力がひそんでいる。このことを忘れてはならない。個人的な領域におけるこの暴力を、形として現れたものが武器であり、狩りの道具にもなった。それが「刃・剣」であり、今日の大量破壊兵器とは一線を画すものである。

 


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6 コメント

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ポピュリズムの問題とリンク (メロンぱんち)
2022-06-01 10:17:22
広く、また、深く、テーマを取り上げていただき有難うございます。単純に喜んでいる次第です。

私自身も考えがまとまっていない問題でもあるのですが、こちらの記事を拝読して少し思い当たる部分がありました。「個人の暴力と国家規模の暴力たる戦争は少し事情が異なるのではないか?」という箇所についてです。

どうも米国リベラル界隈でも重視されているスタンフォード大教授のラリー・ダイアモンド氏は、諸々の現在の問題としてポピュリズムを掲げています。「ポピュリズム」と一言で言っても何通りか解釈できてしまいそうですが、氏が念頭に置いているのは「ドナルド・トランプ」に代表される人物のようです。トルコのエルドアン、ハンガリーのオルバーン、フィリピンのドゥテルテあたりで、実際に選挙をしても強いという分析なんですね。非リベラル民主主義が登場してしまっている、と。そして、そういう国家はマスメディアを恫喝したり、世論の後押しを武器にして処分を課すまでの言論統制をしている。ポピュリスト政権の登場なのですが、そうなるとファシズムの問題とも関係してきて独裁的になる事が予想できる。

それを踏まえて、戦争を考えた時、実は民主的判断によって戦争が始まるのではなく、独裁者もしくは一握りの独裁政権エリートによって戦争を開始することで出来てしまうというんですね。個と個の暴力と、国家との戦争が完全に同じ次元ではないのですが、意思決定は既に実質的には民主的に行なわれなくなる、と。また、間接的には中国とロシアは権威主義的専制で実質独裁ですが、「あちらの方が色々と効率がいいじゃないか」と考える知識人が本当に登場している、と。
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ポピュリズムを当てにしないプーチン (小寄道)
2022-06-01 17:58:00
メロンぱんち様 コメントありがとうございます。
事後承諾をいただきましたが、勝手に引用して持論を展開したうえさらに、拙記事を補完していただけるコメントを書いていただき、誠に感謝この上なく存じます。

今回の「暴力」にまつわる私の拙い考察は、あくまでも人間の個人として限定したものであり、組織や国家のそれを想定していませんでした。
もちろん、メロンぱんち様は「国家規模の暴力たる戦争」を示唆されています。が、個人としての暴力は、人類学的にはせいぜいバンド(集団)同士の抗争ぐらい範囲に規定していいとおもっています。
メロンぱんち様がいう通り、「独裁者もしくは一握りの独裁政権エリートによって戦争を開始することで出来てしまう」ことの蓋然性は高い。正規の手続きを省き、SNSなどで勢いを得た人気の権力者は圧倒的な速さで暴力を行使できてしまう。
でも、プーチンはSNSを使ってないようなんですね。身の回りのイエスマンだけの情報を頼りに戦争をしている。そんな噂もありました。となると、どちらかが負けを宣言しない限り、だらだらと戦争を続けます。
アメリカの一人勝ちが確定した段階で、中国がどう動くか。ここから新たなフェーズに入ると思います。
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Unknown (スナフキンÀ)
2022-06-03 19:49:04
こんばんわ。メロンぱんち様のブログで、お会いしているとは存じます。スナフキンです。
とはいえ、メロンぱんち様の処におけるスナフキンは「名無し」でして、
名前の欄にハンドル入力しないと、自動的にスナフキン表記に設定されているそうです。その為に、小寄道様がご指名下さったスナフキンが私なのかどうかは判別がつきません。ですが、この一ヶ月ちょいの間、メロンぱんち様のブログにスナフキン表記でコメント投稿したスナフキンは私だけのようです。なので短期的に(小寄道様が)スナフキンへ呼びかけたのであれば、「それは私の事な可能性が高い」と判断しコメントいたします。間違いでしたら申し訳ございません。
それで、私は個人のケンカ(最大でもバンドの抗争)と、国家間戦争との暴力を分けて考えるという発想に反対なのです。
たしかに「近代日本最大のケンカ」というと、発電所建設を巡って
鹿島組と間組(でしたかな、どちらも現在の大手ゼネコンですが)が戦前に起こしたケンカでしょう。「闘いの構図」という小説になってますが、
建設業者が数百人づつ猟銃やダイナマイトや日本刀を用いた市街戦を繰り広げ、騎兵隊と憲兵隊、陸軍の歩兵連隊が出動して鎮圧してます。
でも、この程度は「械闘」といい、尖閣諸島で海保の巡視船に体当たりするような江南の漁民たちは、村同士でやってました。なので小寄道様の仰る意味は理解できるんです。
ただ……私としては、国家と個人(およびバンド)の中間があると思うです。一つは中世の権門体制…宗教勢力ですね。一向一揆や本願寺など、
宗教は国家ではないが、関所と運送(城下町が出来るのは信長以後で、それ以前、町といえるものは門前町と湊だけでした。その双方が寺社の勢力下にある)を抑えていた。戸籍ない時代、税は物流の関所と湊で、
運送業者から回収しますから(戸籍を作り税を徴収するには巨大な官僚組織が必要)、巨大な金融と許認可権を背景に、絶大な軍事力を持っていました。彼らは宗教と言っても戦国大名と変わりません。
にも関わらず「民間」ですよね??
つまり中世の寺社勢力は、権力(暴力装置)とは、税を(直接税でも間接税でも)取り立てて、それを暴力装置に転換できれば、国家も民間もないと言う事になると思うのです。
次いで、もう一つ考えるのが893つまりヤクザ・マフィア黒社会です。
これも「民間」暴力です。しかし国家と非常に似ています。
シマ(領土)を有し、領土内でのルール(法または掟)を有し、外部に対しての武力を持っています。まったく「国家と変わらない」と思います。
国家との違いは①通貨発行権の有無。 ②歴史的、文化的な認知度
の2点に過ぎないと思います。 ①については持てば、より巨大な国家に潰されるから出さないだけです。実際、メキシコの麻薬カルテルには
ファーベラ(スラム)で自前の「地域通貨」を発行していたものがあり、
それが出来たのは国家警察軍の武力と拮抗する兵器、兵員数(鉄砲玉)、情報収集力(賄賂による)、住民の協力などがあったからです。
逆に言えば、こういう地縁だけの宗教のような思想基盤すら持たない「バンド」でも「国家と拮抗し得る」という事です。
つまりですね……そもそも私は春秋戦国を統一した始皇帝にしてからが「軍事マフィア」化した「バンドの王」であり、そもそもの国家の起源はマフィア、ヤクザなのだと思うのですよ。
国家も権門も、ローカルから出発したヤクザ(民間暴力)が大きくなったもので、そもそもの本質は変わらない!と思うのです。
利権が複雑になるだけで、ヤクザ(バンド)と国家の暴力に、変わりは無いと考えてます。ただ国家は、とくに日本は、一定以上の歴史的な重みがあり、そこに文化的な同一性があるため、そこに住む国民は、それを当たり前のものと認識しているだけで。そういう意味で始皇帝いらい、あらゆる国家はヤクザの延長と思います。なので、私は国家暴力と私的暴力を分けるのには反対です。実際、日本軍の特務機関で働いていた祖父が語る奉天軍閥は、祖父の語る限りそんなもんでした。では長文失礼を。
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Unknown (スナフキンÀ)
2022-06-03 19:51:47
こんにちわ。残念ながら字数制限に掛かったようで、消えてしまいました。また出直します。
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Unknown (スナフキンÀ)
2022-06-03 20:17:35
あら? 送れているのでせうか?
送れているのでしたら、結論を書き忘れたので。
ようは国家の起源はヤクザだと思っているのです私は。彼らが賭博に関わるのはダテではなく、そもそも数理的な知性は、暦や天文、冶金、
農業に生産量の記録……と、国家または大きな集団を統括するのに不可欠です。そして賭博は胴元からすれば統計を利用するものです。
国家がそもそも「大きくなったヤクザ」だから数学を尊び、ヤクザは確率論と統計の産物てある賭博を主催するのでしょう。
つまり大きめのバンドと国家の間には境界線は存在しません。
とすれば、もともと一定数つまり、狩猟採集を社会の主な生計手段とするのは不可能な人数までバンドが膨れた段階で、暴力的な決着(着地点)は不可欠であり、従って暴力装置は必要悪、暴力を用いた解決も必要悪となるのだと思います。 しかし人が狩猟採集て生きてゆくには、
一人あたり1平方キロメートルの狩場が必要であり、1平方キロメートルに一人とは「フロンティア」であります。そんな土地は地球上には数える程しか残っておらず、故に今も人は(最終的には)暴力による解決に頼らざる得ないというのか私の言い分であります。では。
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スナフキン様へ (小寄道)
2022-06-03 22:24:50
コメントいただき有難うございました。
それも3回にもわたり、非常に恐縮しております。取り急ぎ、事情を説明いたします。今日は、個人的な事情でまったくPCを使いませんでした。スマホでは、自分のブログを読みませんし、コメント等のアクセスを知る由がありません。
現在、午後10時過ぎにpcメールを開いたところ、スナフキン様からのアクセスがあったことが判明。すぐさま、公開の手続きをしました。

まだ、詳細を読んでいません。サラっと読んだところ、たいへん真摯に私のブログ内容について書かれているようです。
きちんと読んで、スナフキン様にもご納得のいくような応答コメントを書きたく存じます。このブログの続編を書くことも思案中であり、私なりの回答、考察を加味して論じようかとも考えています。

ということで、取り急ぎスナフキンさまへのレスポンスとさせて下さい。
今後ともよろしくお願いいたします。
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