小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

近場の隈研吾

2016年03月02日 | エッセイ・コラム

 

今日3月2日付東京新聞、「中国、丸太も爆買」という記事。日本の木材が爆買されるほど余っている? 先細りの日本林業、その足元を見くびられ買い叩かれているのか、などと余計な心配をしたのだが・・。建築用の型枠材に使われる低品質の木材が中心らしい。いまや、中国は不動産バブルがはじけ、ビル建設も頭打ちと伝え聞く。「丸太も爆買」を示すようなデータも、来年からは下方に向かうのではないだろうか。

ちょうど昨日、養老孟司&隈研吾の「日本人はどう住まうべきか?」という対談本を読み終えた。いろいろ示唆に富み、勉強することが多かった。今日の新聞記事に引きつけていえば、「コンクリートは詐欺に似ている」という、隈の視かたが面白かった。

コンクリートは20世紀の建築をけん引したイノベーション素材であり、コルビジェに代表されるモダン様式の建築デザインを飛躍させた。しかし、大きな弱点もある。コンクリを打ったら、中に何が入っているか分からない。鉄筋が入っているかどうかも見えない。

そういえば最近、台湾で、地震による高層ビルの倒壊があった。崩れた柱の中から、コンクリをかさ増しするための箱のようなものが出てきたという。耐震強度を偽装する、いわば詐欺まがいのコンクリート建築、どうして中国、日本などアジアで多いのだろう。

世界中にコンクリート建築を普及させたのは、その資材の存在だけではない。弾みをつけたのは、コンクリートを流し込む型枠、これを簡単にベニヤ板で組み立てる技術だという。

いずれにしても、出来てしまえば中は見えない。建て主は、信用するしかない。丹下健三や安藤忠雄がデザインした建築であっても、現場サイドで構造工事の手抜きがあったとしたら、コンクリートで塞いでしまえば不可視となる。事実、耐震強度偽造マンションは、このまえ横浜でも発覚したし、過去にも社会問題に発展したことがあった。

さて、隈研吾は、日本のコンクリート建築が世界に冠たる技術を誇り、発展した理由としてふたつ挙げている。

一つは、前述したベニヤ板を組み立てる日本の大工さんの精確な技術。世界でも、指折りだという。

もう一つは、関東大震災と太平洋戦争のトラウマ。多くの木造の建物が焼け、多くの人々が亡くなったという悲惨な事実。燃えやすい木造の建物への、拭いきれない心理的不安が、コンクリートへの過度な信頼を生んでいるのではないか、ということであった。

隈研吾が木材にこだわるのはそれだけの理由からではない。ここでは書かないが、「木の国・森の国、日本」を大切にした独自の建築意匠を、私は好ましく思っている。

以前ブログにも書いた、例の新国立競技場の見直し。設計は、隈研吾に決定した。「木と生きる」「低く生きる」のがこんどのテーマだという。建設にあたって東北の被災地の木材を使うことを、新聞で読んだことがあった。被災地の復興を各方面から後押しする、彼の願いが叶うのではないか。まだ問題はいろいろあるらしいが、完成してよかったといえるものになってほしい。

 

私が住むまちの近くでも、隈研吾の建築を見ることはできる。

根津にある民間の老人ホーム。1階の一部が、関西から来たうどん屋になっている。

 

 老人ホームの外観

 

 

 ↑うどん屋の中に蔵があって、そこも店の一部。私たちは下の方の大きな一枚板のテーブルでいただいた。うどんは旨いし、酒も美味しいものを揃えていて、あてになる小料理も豊富かつ逸品。天ぷらもまあまあ。食べ物の写真は撮らない主義なので悪しからず。

 

 正月だったか、暮れだったか、浅草に行ったとき雷門の前に、一目でわかる「隈研吾」があった。「浅草観光会館」、8,9階建てぐらいか。気軽に入れて、意外にも楽しかった。その屋上からスカイツリーの夜景をみた。そこにいたのは殆どが中国か東南アジアの若者たちだった。お金を使わずに楽しむすべを知っているなと感心した。

 

 

                        

↑ ▲1階の吹き抜け&展示スペース(何もなくがらんとしていた。何階か忘れた)

 

  ついでに根津美術館。

 

 

 

↓私の本籍地がある豊島区役所も彼の手になるもの。先日サンシャインに行ったとき、見学しようと区役所へ行ったが、明治通りからだいぶ離れたところに移転したとのこと。疲れていたので、見ずじまいであった。ネットにあった建物の模型を借用します。これほどふんだんに木材を使ったビルは壮観だろう。東北復興の一助となる木材であってほしい。

 

 ↑豊島区役所(模型)

 

  ↑豊島区役所 エントランスホール

最後に、「日本人はどう住まうべきか?」について、もっと書きたいことあったのだが、この辺にしよう。特に著者のもう一人、養老孟司についてもふれたかった。もう品切れになったかもしれない「身体の文学史」は、なみの文学評論家では書けない画期的著作。人間の意識としての「言葉」。それは、「身体」が生み出したもので、意識と身体をあざやかに結びつけた作家論だった。明治から昭和までの文豪たちの作品を、「身体」という視点から端的に読み替える。まさに文学の解剖学である。この本を読んで、養老孟司という人の深さ、凄さを知った。養老先生については「無思想の思想」で、かるく以前にもふれた。あらためて書いてみたいのだが、他人様の読めるものとして完成できるか、いまひとつ不安である。

 

 

 

 

 


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