小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

連鎖する偶然、惹かれあう出会い

2023年10月03日 | エッセイ・コラム

スマホのOSはグーグルなので、撮った写真が「フォト」というアプリでクラウド上にストックされる。15GBまでは無料で、まだ10GBも空きがある。だから焦る必要はないのだけれど、古い写真を整理しようと思い立った。
過去のストックをさかのぼって整理していたら熊谷守一絵画展(近代美術館※➡注)の写真群があった。そのなかになんと柳原義達の彫刻があった。過日、このブログにも載せた『孤独なる彫刻』という著書のトビラにあった裸婦像である。

常設展示館の小さな空間に、等身大よりやや大きな彫刻が並んでいた。兜をかぶったサムライの彫刻は舟越保武の作品で、緊張感と静謐さが漂う彫琢であり、舟越桂の父親であることは承知していたし、『巨岩の花びら』という著書は卒読していたかと思う。彼の作品はどれもがキリスト教に関係するものが多かったので、武士像は意外な感じがしたし、その出自を知る術がなかった。

 

さて、そのとき実は、小生が名前も知らない柳原義達の裸婦像の方が強烈なインパクトを受けたのだった。女体としての肉体表現=彫刻における量塊(マッス)は想像力を超える何かを感じた。あまりの迫力にこちらが引いてしまう凄みがあった。今なら冷静に鑑賞して、ミケランジェロやロダンのような西洋彫刻の表現を学んだ人なのか、とそう思ったのではないか・・。

そんな作品をなぜ小生は、ブログに載せなかったのだろうか? 淀んだ記憶のなかから掘り起こしてみると、個人的には無条件に好きになる作品ではなかったのだと思う。そうとしか考えられない。

ともかく今から5年前ぐらいの体験だけれど、忘れられたストックのなかから柳原義達の裸婦像を見つけだすなんて、意外なところで偶然、旧友に出くわしたように嬉しいことだ。

その後、竹下節子さんのリシエの記事から、柳原義達に関連することが芋づる式のように身辺から発見できた。5年前にみた裸婦像の体験をなんの因果か封印したのだが、さらに入院中にテレビでみた「末盛千枝子と舟越家の人々」の小さな情報から、三日後の終了間近の展覧会に行った。そのことがあって竹下節子さんのリシエの記事の連載をなんども読み、自分でもリシエを考察して記事を書いた。

考えてみれば、すべてが連環するように繋がっていたような気がする。こういうのをシンクロニシティというのか、偶然の連鎖なのか。以心伝心ともいえるのか。虫の知らせあるいは第六感と呼ばれる、理屈では説明できない感覚が研ぎ澄まされてきたのか・・。これが神様の悪戯だとしたら、それは素敵なことだし、粋な計らいだと思う。無神論を考えなおす時期かな。続きを書くかもしれない・・。

※➡注:過去記事『守一の後、美術館にて』・・・記事中には、パウル・クレー、菅井汲、朝倉文夫、そしてなんと草間彌生の男性器ばかりを集合したオブジェの写真を載せていた。水玉模様に没入する前には、彼女はこんなものに入れあげていたのだ。

 


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2 コメント

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連環 (jeanlouise)
2023-10-09 04:01:20
連環する思考。小寄道さまのブログから連鎖、頂戴しています。
柳原義達の「裸婦像」のインパクトが私の中で舟越桂の「水に映る月食」を連想させるのはなぜなのだろうかとウニウニ考えたりしております。
なにかのきっかけで記憶が蘇り、そこから連鎖する事柄から派生する発見。新たに考えるタネを得たりしています。旧奈良監獄のホテルリニューアルで、「パノプティコンと監視社会」を思い出し再読し、監視社会の構造について再考するきっかけになっています。
思考するスイッチを小寄道さまに点灯していただくことしばしです。
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Jeanlouiseさま (小寄道)
2023-10-09 12:39:58
過去記事をくり返して読んでいただく、そのことだけで嬉しいです。記憶を確かなものにしたい、新たな気づきが過去を呼び覚ます。そうしたことは大切なことだし、心の滋養になりますね。
毎度ながら、沁みるコメント感謝です。
ありがとうございました。
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