小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

見出されてゆく「私」、そしてシノプティコン

2020年08月31日 | エッセイ・コラム
前回の記事でトマス・マシーセンのシノプティコン(synopticon)の概要にふれた。「多数者が少数者を見物する」という古代の「見世物」という概念(※)が、テレビなどの映像メディアを観て、パーソナルに楽しむという文化に成熟した。 それが今や、ITや人工知能などのハイテク化と、光ケーブル通信に匹敵する情報量=5Gであるワイヤレス・メディアの全盛を迎えようとしている。 スマホというメディアは、もは . . . 本文を読む