毎年花時は詩人画人にとっては嬉しくも忙しない時期で、花に鳥に詩書画に毎刻飛び回るような日々だ。
残念ながら今週後半は雨続きの予報で、せっかく咲き揃った染井吉野も山桜も長く保たないかも知れない。
花散らしの雨が降り出す前に荒庭の椿の傍らでガーデンティーにしよう。

(益子急須湯呑 昭和前期 四方盆 大正〜昭和初期)
椿は耽美派時代の古びた洋館の庭を思わせる。
19世紀ヨーロッパの庭園でも日本の椿を植えるのが大流行して、薔薇の花期前の庭の主役となっていた。
今は鎌倉文学館となっている旧前田侯爵邸の庭園で、椿や薔薇に囲まれ文芸論を交し合った鎌倉文士達の姿が春陽の中に眩しく浮かぶ。
荒れ果てた庭で椿の精と共に耽美に浸り、当時はまだ若かった文士達を偲ぼう。
ーーー落椿朽ちゆく庭で詩論かなーーー
今日の茶菓子はまたまたスーパーの饅頭だが、家人はこれで十分満足と言っている。
良い花良い書画を飾れば、何でも美味そうに思えて来るのだ。

(直筆句軸 高浜虚子 黒織部徳利 江戸時代 李朝台鉢)
「咲きみちてこぼるる花も無かりけり」高浜虚子
虚子の書ならこんなたわいない句でも立派な軸になってしまう。
きっと句の出来不出来よりも春を愛おしむ花鳥諷詠の暮しそのものが、昔の文人高士の理想とする境地なのだとも思う。
机上は祖師の句の内容に反して、花が盛大にこぼれるのを放ってある。
荒庭の椿がここにも色を添えてくれた。
彼岸会の牡丹餅は、最近我家に鎮座された弁財天に御供えしよう。

(古備前弁天像 幕末明治頃 青南京花入 鳳凰形手燭 古志野茶碗皿 江戸時代)
弁財天はヒンドゥー教の女神サラスバティーが長き変遷を経て我が国の七福神に収まった神で、江ノ島はその最古の3社に入るそうだ。
元は水の神でもあり明治の神仏分離令以前は市杵島姫命と同視されてもいた。
彼岸にお祀りするべき特定の神仏は居ないので、直接の関係は無いが鎌倉なら弁天様でも良いだろう。
木花咲耶姫は花鎮めにご登場頂くのでもうしばらくお待ちを。
燭台の鳳凰も春の霊鳥で、よく桐の花と共に描かれている。
ーーー花冷の山に三方塞がれて 鎌倉人は海を眩しむーーー
この後は生憎雨が続く予報なので、敢えて春雨の題を中心に吟行しようかと思っている。
©️甲士三郎