花の精や花神と言えば日本の木花咲耶姫、中国の牡丹の精、ギリシャローマのフローラほか全世界に似た伝説がある。
そのようなスピリチュアルな存在に対しては、現代人より古人の方がずっと身近に親しんでいただろう。
(古九谷四方鉢 江戸時代 著者蔵)
写真は中国の知識人千年の夢、牡丹園で花精達(二人の唐子)が花の世話をしている図だ。
彩雲は天霊を、岩(太湖石)は地気を象徴し、命あるもの全てを生動させている。
ここは梅と牡丹が同時に咲き桃と柘榴(縁飾りの窓絵)が年中実る、時を超えた理想の楽園だ。
隠者の荒庭にも梅と牡丹は植えてあって、こうした古人達の夢を受継ぎ自然の精霊や万物に宿る神気を感じられる事は、残余の毎日をこよなく豊かにしてくれる。
(瑞泉寺の水仙と梅に椿の庭園)
ところがこれら多神教の精霊や自然神達は、一神教の輩からは倫理道徳を教えないから原始的な宗教だと誹られる事も多かった。
確かに人々が無知で野蛮な時代には唯一神による道徳の強制が最も効果があっただろう。
しかし現代の教育による理性と法治が行き渡った国では、神の名を借りた倫理道徳観は返って押し付けがましく思われがちだ。
ギリシャローマの神々や八百万の神なんて神同士でもしょっちゅう喧嘩しているので、反面教師でさえある。
そんな訳で今こそ自然神復興の時ではないか。
自然神の良さは四季の恵みや美しさ、折々の祭事行事の楽しさを身近に共にできるところにある。
桜が咲けば木花咲耶姫と春宵の酒宴を、薔薇が咲いたらフローラと午後のお茶会を催す楽しさは皆にも知って欲しい。
(九谷青手の花器皿茶碗 明治〜大正時代)
瑞泉寺から帰ればお茶の時間だ。
器はいつもの地味な陶器はやめて、春らしく華やかな色絵磁器で揃えてみた。
ただし花の絵が大きく描いてある花器は禁物で、さらに絵の季節も合わせないと駄目なので気を付けよう。
©️甲士三郎