どんな人でも若い頃は山河草木、花鳥風月に対する感興は薄い。
自分の事と精々身近な人界の事で精一杯なのが普通だ。
歳を取るといい加減自分の内界にも飽きて来て、外界の森羅万象へ眼が向くようになる。
更に老い先短くなってもう何回も春秋を見る事が出来ないと知り、やっと自然や世界の愛おしさが身に沁みてくるのだ。
私は日本画家なので若い時から四季の風景や風物に眼が向いていたが、それらを心で感じ取れるようになったのはようやく40歳頃だった。
その後の自然感応力の鍛錬は(感応)(観想)(止観)(観自在)と進むのだが、一子相伝の秘奥義なのでここでは語り切れない。
路傍の雑草の花を見て戦場の焦土に咲く一輪を想起できるような者なら、苦闘の末に自得するのが一番良い。
拙句で分かりにくいだろうが例だけ示しておこう。
(感応)---露草がめそめそと咲く曲り角---
(観想)---露草がめそめそと咲く帰り道---
(止観)---露草がめそめそと咲く長き道---
同じ自然の美を感じるにも、練度により深浅貴賎の差があるのだ。
ただ補足すると、前世紀俳句では客観写生で止めろ、とも言っていた。
いずれにしろ心していないと歳と共に感動する事が減り、何事にも鈍くなるのは明白だ。
自然感応力が高まれば、ありふれた日常生活にも情感が満ち溢れる。
雨の散歩道も蝸牛も紫陽花もみな愛おしめる人には、身の回りの至る所で小さな奇跡が見つかるだろう。
そのうえ詩や歌、絵や写真の趣味があればもう至福と言えよう。
ただの散歩が即世界の深淵への旅につながる。
---ででむしの渦は誰にも止められぬ---
---鎌倉の古き土より咲き出でて 額紫陽花は仮の世の色---(旧作)
落ちぶれ隠者にとって世俗の評価は眼中に無いが、自己満足くらいはしたい。
ところが自分が満足できる作品こそ最も得難いのが常だ。
それでも私にとってこの世界は美や詩情にあふれている。
我が師奥村土牛は、その先師の横山大観筆「天霊地気」の軸を掛けてよくご覧になっていた。
私が言うと少々胡散臭いだろうが、天霊も地気も確かに実感は在る。
あるいは「気韻生動」も東洋の詩画人が大事にして来た言葉だ。
要はそれを感得しようとする強い意志があるかどうかだ。
古人師父が信じたものを、現代人も少しは信じてみる価値はある。
昔ながらの教えを教条主義的に守る必要はないが、ことに行き詰まっている前衛方面の人達には古の神秘主義の啓示が役に立つ気がする。
©️甲士三郎