(十牛図)
禅書の十牛図の最終形「入鄽垂手」は、覚者が市塵に塗れだらしなく歩き回る姿である。
解釈は例により不立文字、臨機応変、千変万化するが、絵だけ見ると西洋で言う愚者に似ている。
愚者なら私でもなれると思い、襤褸を纏いだらだらと市中に出て見た。
つまり風体はいつもと同じだが、愚者だと思えば少し身軽になった気がするくらいだ。
隠者は最低限の詩書画が出来ないと務まらないが、愚者は何もしなくても済む。
ただ「大賢如愚」とも言って、たまには賢い事も言わないとだめだ。
(愚者 タロットカード)
街中で愚者らしい句歌を試してみた。
---老骨のひょいと跳び越すにはたづみ 天上天下逆さに写す---
(にはたづみ)は水溜の意。これぞ狐狸禅、似非道歌!
しかし一休禅師のような大愚に堕ちるには、まだ魁偉さが足りない。
---白服の老人軽し風の廊---
こちらの方が良いか。
この手の句で傑作は高浜虚子の「老僧の骨刺しに来る薮蚊かな」だと思う。
ただ、いわゆる俳禅一如とか言い出すと流石に古臭い。
西洋的な愚者やトリックスターの概念の方が、きっと若い人達には分かり易い。
---冬瓜はいつも座ってゐて偉い---
これは30歳頃の作で、当時は満足出来た句だった。
私は元来隠者なので、禅方面は精々が中愚止まりで相応だ。
あと十年二十年後には愚かさにももう少し磨きがかかるように、もっと馬鹿な事を沢山やらなければ!
©️甲士三郎