オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

現代社会での、癌に対する心構え

2022-09-09 11:11:27 | 癌のステージ4なんて糞喰らえ

   

 

 癌は、コロナと同じで、目に見えない敵だという暗黙裡の知識の洗脳と解釈があり、そこに怪しい治療や怪しい医療が多種多様に入り込んでしまっていて、悪性腫瘍を抱えたら終わりの無い苦難の道が始まると、皆さんは思っている。

 どんな人間でも、悪性の腫瘍はいつでも体内に生まれはするが、通常はそれを自己免疫で即座にやっつけてしまってる。

 それが出来なくなってる者が、悪性の腫瘍を大きく進行させ、難儀な終わり無き治療という名の日常を、延々と送らされて行く訳だ。

 癌をやっつけるのではなく、まず各自が体内の自己免疫を健康なモノにする、これがナニよりも大事なこと。

 そこを勘違いしていると、終わりの無い残酷な日常が、金儲けに利用され、死ぬまで続いて行くことになる。

 想えば、俺はガキの頃からそう生きて来た。

 生きていての煩悶を、親や家や他人や社会のせいにしないで、すべては自分を変えて鍛えることで自由自在になると。

 予防医学、ワクチン、健康食品などなどは、この自己免疫の邪魔をして破壊することすらある、俺はそう考えている。

 余計なことはせずに、大自然・地球とともに生きる、そこでいつも身体をクタクタになるまで酷使してやる、これが一番の基本になっている。

 

 この春に、それまで元気に普通に過ごしていたのが、すぐに息があがり苦しくなるようになり、それから酷い貧血症状を起こし、大学病院に急患で診療に出掛けて検査をすると、いつ倒れてもおかしくない数値だと言われ入院し輸血、並行して精密検査の結果、大腸に大きな悪性腫瘍があり、腸壁を破ってリンパ節や他にも達しているとの連絡を受け、しかも肺にも転移している、ステージ4だとのいきなりの通告だった。

 コロナ渦で面会もできず、本人とは電話で話すだけだったが、もう仕方ないよ、との淡々とした、絶望するでもない諦めの言葉ばかりだった。

 義父も食道癌で、むかし手術中に義母と義弟が呼ばれて、腸を食道に移植して対処するとの話を受け入れて、言うがまんまに外科医に弄ばれ、挙げ句に目が覚めることもなく2か月近くの植物状態のまま、残酷な最期を迎えていた。

 医療にまかせっきりにはしない。

 すぐに俺の主治医がいる癌では日本トップクラスの専門病院に連絡して、駄目だとしても、納得の行くように後悔無く対応してやりたいと伝え、転院の準備に入った。

 データの移転やらが終わり、本人を連れて入院手続きを終える時には、緊急手術の日程が5日後に組まれ、アッと言う間の手術が終わった。

 癌のステージは4、手術前の患部の画像は大きくなった癌で見るも無残な状態だった、ただ・・・執刀した以上は根治を目指しますよ! 転移の可能性がある部位を可能な限り削除しました。・・・との笑顔には感動したもんだった。

 それから奇跡は続き、遺伝子解析の後に免疫療法へと移り、あとは1500m以上の新鮮な空気を浴びる山登りと、ラジウムなどの強い放射線が出ている源泉に浸かる週末を黙々と繰返し、3ヶ月経った精密検査では、腫瘍マーカーは正常、全腹部には転移はなく、肺の影もイマイチ疑わしいとの話だった。

 肺癌は細胞をとっての病理検査は手術しかなく、それならば患部を削除してしまった方が一度で済むからとの話で手術日程も入れてあったが、念のためにPET CTを撮ってもらったところ、悪性腫瘍だと色が変わって反応する筈のものが無反応だった。

 微量の放射線に、身体を被爆させて撮るPET CTは、精度が高い。

 良性の腫瘍か、ナニかが治った痕跡か、カビ類かナニかは判別できないが、3ヶ月大きさが変わらなかった小さなモノだから、また3ヶ月くらい様子を見ても良いとの判断で、月末の手術は急遽中止になった。

 昨日のことだが、信じられないことが続いている。

 こんなことがあるのか? 

 つまり、ステージ4を宣告されてから、嘘のない最善の対応とはナニかと考え続けて、5ヶ月で体内から癌は消えてしまった。

 凄いことが起きたのか、それとも癌とはそんなに神経質に怖れるものでもないのか? まだ解らない。

 信じられないことが、俺のまわりではよく起きるが、今回はぶったまげた。

 癌の治療は、まず脅しで怖がらせて、委縮させ、思考を停止させて良いように弄ぶ、俺はそう思っていた。

 それには乗らず、自分たちで考えて選ぶ、これが第一義だったが、一度の手術ですべてが終わったようなもんだ。

 いまだに、そんなことがあるのか? と、脱力感でいっぱいだ。

 ならばもっと早い時期にPET CTの検査をしておけば良かったのではないかという問いは、癌の性質が解ってない愚問になる。

 最初の執刀をお願いした外科医の腕が、すべてを決めてくれていた。

 そうして自己の免疫を健康な状態にしようと、地球の大自然の恵みをたくさん穫り入れたことだけで、こうなった。

 薬など、ナニも飲まず、酒も止めてしまい、治療の苦しみなど無く、ナニも努力らしい努力もしていない。

 意味不明な抗がん剤治療に較べて、費用もかかってない。

 オストメイトとなっても山を愛し、海を愛して生きてる俺の日常に、しっかり引き戻してやっただけ。

 これは今後の再発防止でも、そのまんま行くつもりだ。

 ただ患者本人は覚悟だけは決めて、精神的には辛かっただろうが、表には出さずに、笑って過ごすことに専念していた。

 全身全霊で当たっていたから、俺もどっと疲れが出てるが、次は93歳の爺さまの、閉塞気味に肥大した直腸癌にステントを埋める治療をやらせてみようと動いている。

 訪問介護に訪問看護、在宅診療の体制も整え終えたので、どう残りの命を過ごさせるのか? そうなっている。

 医療治療でイマイチ解らないことがあれば、他の病院のセカンド・オピニオンを作り、見たり考える方向を拡げることは必要だ。

 去年近くに引っ越しをさせて、毎日の愉快な会話で酷い認知を治したばかりで、しばしの入院に耐えれるのか? コロナで面会もできない中で、何が出来るのか? 眠れない日が続いている。

 下らね~コロナ脳に染まった国家と国民や、商業主義に突っ走る医学と対峙して、それをどうやるか? 

 今朝も5時には目が覚めて動き始めているが、あちこちの仕事も、手は抜けないモノばかり、なにもかもを背負って、難儀な高い山の頂を目指して登って行く。

 生きているって、まだまだ興味深く、オモシロイ。

 

 余談だが、酒の文化というものは、泰平の江戸時代でも今ほどは庶民も飲んではいなかった。

 謀略や策略には、よく使われていた。

 祭りの文化には酒が付き物だが、それも統治という下心の為せる業だった。

 明治期から昭和にかけて、日本史を紐解く場合に、色付けや歴史の飾りとして酒を飲んでいたという習慣を挿入するようになり、大昔から日本人は酒好きだったと思わせるような記述が増えて行った。

 司馬遼太郎だとか、そういった歴史モノを書く作家たちの仕業でもあった。

 酒と女、これをセットにしておけば、売れる、そんだけのことだ。

 それを真に受けた現代人は、英雄は酒と色を好むと勝手に解釈し、麻薬と一緒に常習するようになってる。

 ただの平和ボケした現代人の、弱っち~常習化。

 痛み止めの麻酔として、酒や麻薬は存在していたのが実際で、平和になるとそれが不感症な人間や、身勝手で逃避癖の強い連中の常習によって、快楽追求と睡眠のためにと広まっていっただけだ。

 売る方も趣向を凝らして、煽り続けているから、それが現代人にとっては普通の景色に映っている。

 痛み止めや睡眠薬などいらない人間にとっては、無くてもぜんぜん平気なモノだ。

 酒や薬や麻薬などなくとも、生きて最上のエクスタシーを永続させることが出来なければ、ただの獣だろう。

 心とか、精神とか、生き霊とか言ってみたところで、それがキチンと味合えないのでは、ただの獣さ。

 

 銀座の街で30年以上、こうやって見返りなど考えずにコツコツと、口先は賑やかに無茶苦茶やってるように振舞ってはいるが、やることをキチンと続けてくると、まわりに良い人ばかりが集まって来てるようでもあり、懸命に他人や社会のためにと無償で手を貸して生きてばかりいたって、神や仏など甘ったれたものなど存在しないと決めつけていたが、なんだかこれが見返りだとしたら、これ以上の報酬はないんだろうとも想う。

 何十年も自営を続けて来た甲斐があったと、想いもする。

 

 



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