60歳過ぎても、いまだに子供を育ててるようなとこがある変な生き方をずっと続けて居るが、この20年くらいそれぞれの子供たちを眺めてると、気が付くことがある。
記録よりも、記憶、スポーツではよく聞くセリフだけんども、今の子供や若者は、すでにそうなって来てる。
銅像や墓石を建て、磨いて暮らすことよりも、楽しく生きて居たい、すでに価値観に大きな変化が訪れている。
歴史そのものが怪しいと気が付き始めた時代に、歴史を学ぶ意味はなんだろうか?
ナニかを残すこと、そんなことに意味があるんだろうか?
遺伝子いがいに、人類が遺すもので価値のあるものはあるんだろうか?
モノはいずれ滅びる、個々の命にも必ず終わりがある、終わってもなお、ナニかを遺す生き方こそ、卑怯。
自由自在に生きて良い、俺はそういう教育でいつも子供らを育て上げて来てる。
俺の、わたしの、先祖の墓守りをして欲しいがために、爺婆や両親が子供を甘やかせてる。
甘やかせながら拘束する、これも卑怯。
子供や若者には実のところその意味などどうでも良いことで、爺婆・両親のことすら、たいした興味でもない。
それほどにオリジナルの強烈な愛情を注いで来たのか? 溢れる笑顔をたくさん与えてやって来たのか?
対等な個として、先に生きて来たものとして、忘れ得ぬ思い出をどれだけ脳裏に焼き付けて来たのか?
残念ながら、現代の爺婆・両親と言う存在は、それに値する存在は少なくなってしまってる。
ゼニカネ勘定でカタが付く、そんな程度の親子関係でしかないことが多すぎる。
そんなどうでも良いような退屈な家自体も、じきに崩壊するんだろう。
そこから新しい価値観が生まれる、それが健康な人類の未来で良い。
50歳前後の頃から、食事に興味が無くなって来て、酒もぜんぜん飲まなくなった。
30数年前の不動産バブルの頃はまだ若かったから、毎晩さんざんに贅沢し放題の飲み食いをしておったが、なんだかどうでも良くなった。
それからだ、山や海の行く先々で、地産地消の地元の食い物だけが美味いと想うようになった。
それは優劣を言うものではなくって、その時その時に愉しむもの、そういうことになってる。
贅を尽くした銀座や青山で40年、今は日本の田舎のそこでその時期に採れた美味いモノ。
生きてることってのは、そういうことだろう。
選挙が近くなったり、政治でなんか動きがあるときは、メディアのメクラマシや監視やお邪魔虫が大量に日本中に発生するが、これは小泉・竹中時代から、近畿大学のおボンボン世耕が先頭になって蠢いてる結果だ。
業界団体、スポーツ団体、障害者の団体、協会に連盟・・・これも、みなイナゴの類だ。
チンチクリンな虫がイナゴのように、ネットの世界にも大量に湧いてくる。
若い鉄砲玉から50歳超えてもま~だ管理され、指示されて動くことにひたすら従順なイナゴだな。
未開の後進国とおなじ、神や仏に左右され、ありもしない呪いに怯えて暮らす。
こういう内容の無い菌類を相手にしつつ新しい学問や研究を進めることは至難の業だろうが、続けてる同世代のオヤジもいる。
銀座周辺に住んでいたマンションを賃貸にして、外房の方へ引っ越して自然に囲まれた生活を始めてた同世代のオバサンが、脳幹梗塞で倒れたと、身内の方から連絡があった。
ICUにすでに入ってるが、難しそうだと・・・。
このところこういう話が多い。
高齢者だけでなく、バタバタと倒れて逝ってるような、いやいや元気そうに見えても、身体は蝕まれている。
あちこちで相談に乗って、お手伝いもイロイロとしてあげてるが・・・最後は本人の生き方・体力。
オストメイトもそうだが、最後はどう生きるのかという価値観の違いになる。
確たるものを持たない人たちは、医者や病院のモルモットで終ってる。
さ、俺は忙しい仕事もとっとと終えて、今週末は山梨の2000mだ。