オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

山が謎呼ぶ、波の伊八と武田勝頼

2018-12-08 11:06:23 | 地球と生きる

 

 大菩薩嶺のもっと北側の柳沢峠から、笹子峠のあたりまで続いてる標高2000m前後の稜線を、小金沢山連峰とか甲州アルプスだとか呼んだりしてるけんども、登山口も色々あって、東京からも近く、とても素敵な稜線には違いないから、寝坊したときとかにはよく歩いている。

 その間にある大菩薩嶺から大菩薩峠への道は、どこの馬の骨がうっかり言ったのか知らんが百名山とかの行楽ブームで、いつも人が多すぎるから、ずっと長く歩くときには、俺はそこだけ空を飛ぶことにしている。

 そう、ザックのドリンク・ポケットに、いつも翼を格納してある。

 そういう話を、飴を食べに来てた近所の小学校4年生たちにしておった訳だ・・・。

 ・・・え~~、オジサン空を飛べるの?? 凄い~~!!

 ・・・そんなのアタリキサイサイよ!!

 みな、俺のことを親や先生とはぜんぜん違う、人間離れしたジジィだと思ってるから、すぐに信じてる。

 海に行けば独りで高波に見えなくなるようにして泳いでるし、山に行けばナビなど見ることも無く悪路を走り、笑いながら山に入って行ってるのを、みな傍で驚いて見たことがあるからだが・・・。

 もともと渡り鳥の雁が、腹を摺りそうな低空で峰々を越えて行っておった稜線だから、いまでも雁が腹摺り山という名前の山が、その周辺だけでも3つある。

 どれも銀座の子供らを連れて登ってもいるが、そのなかでも、牛奥ノ雁が腹摺り山というのがあって、日本一長い山の名前として有名になってる。

 地元の子供らがハイキングで登ってる2000mくらいの山だ。

 ・・・ウシオクノガンガハラスリヤマ

 渡り鳥の習性はよく解らないことがまだまだ多いんだよ・・・とかなんとか言いながら、空を飛んだ話はウヤムヤにしておいて・・・飴の袋を破ってみなに渡してやりながら・・・ま~ま~聞きなさい。

 何千キロという空を旅して、毎年同じ場所にやってくる。

 飛行機や車のように、レーダーやナビがついてる訳ではないのに、同じ場所にやってくるから不思議なもんだ。

 太陽を観測点にして飛んでるんだろう・・・しかし雨の中でも夜中でも飛んでいる。

 地球の磁力を起点にして飛んでるんだろう・・・しかし磁力とは方向が違ってる。

 ・・・匂いを付けておいたんだ!!

 何千キロも彼方からその匂いを嗅げるのか? あ~~無理だね・・・

 ・・・利口なリーダーが居て、それがみんなを引っ張っていってるんだ! 

 渡り鳥が空をV字に群れで飛ぶときは、先頭は疲れるから、時々交代しながら飛んでるんだよ・・・あ~

 そうだ、カメラみたいな目を持ってて、それで前に見た写真を頭の中で確認してるんだ!!・・・

 何羽かがずっとそこに暮らしていて、それで合図を出して呼んでるんじゃ~ないの?・・・

 飛ぶコースに、なんか目印を落として飛んでるんだ・・・

 キリの無い想像がいくらでも出て来る。

 現代の学問でも解明できていない命の神秘、これは愉しい話には違いない。

 ・・・ところでさ~、オジサンが空を飛んでるって言ったの、本当なの?

 小学生も高学年になってくると、なかなかね、忘れてないんだよね。

 

 その、甲州アルプスの笹子側の外れに景徳院はある。

 武田信玄の嫡子、勝頼の墓はそこにあるが、薄暗い人目につかない場所で朽ちた惨めな姿を晒している。

 山の帰りに立ち寄って、ニヤッと笑って可哀相にな~と呟いてやってるが、恵林寺には移してもらえない。

 戦国時代の、天下を獲るかというくらいの大所帯が一気に弱体化し、敗走に敗走を続け、そこで少人数の供に見守られて自害した。

 どうして恵林寺に移してやらないんだろうか? ずっと疑問がある。

 お家を滅ぼした恥さらしの愚将だから、というほど簡単ではない。

 そう、勝頼の骨がそこにはないからではないのか・・・。

 自害して墓を建て、実際はその辺の山に棲み暮らし・・・戦国時代にはそういうこともあったろうと想ってる。

 現に、あちこちの山に登って来てると、そういう言い伝えはたくさんある。

 哀しい言い伝えは、雲隠れを隠すため。

 群馬の上州は西のあたりにも、そんなオモシロイ話はたくさんある。

 人間社会のいろんなことを経験して来ると、その痕跡を探してみたい、そんな興味も湧いてくる。

 自害した、本当に? 終わってはいないだろう・・・それが獣の直感だ。

 歴史とは合理性の追求と、結論が先に在りきの整合性の構築、だからそんなありきたりの歴史には興味は無い。

 俺も、あちこちに種を撒き散らかして、ぜんぶ育て上げて生きて来た。

 きっとあんたもそうだろう? そう想ってしまう。

 性とか業、獣のオスならばそうだろう。

 当時、味方も少数となった敗走中の武田勝頼に、真田昌幸は使者を送り、今の群馬県にある岩櫃城へと退却を注進している。

 真田昌幸と言えば、御家大事で息子の信幸と幸村を関ヶ原の戦いで東西に分け、どちらが勝っても家を残すことを考えた俺の好きなタイプの人間臭い知将だった。

 当然、主君でもある武田家のことも同じように考えておったことだろう。

 岩櫃城は、登山者には断崖絶壁の愉しい岩山ではあるが、実際はそこへは行かず、他の場所へと旅立っている。

 それについては、また機会があれば詳しく話してみようか・・・。

 余談だが、真田の上田城の片隅に建っている赤松小三郎の碑、この碑の裏に教え子たちの名前が記されているが、明治維新の錚々たるメンバーの名がずらっと並んではいるが・・・赤松小三郎の名は教科書にすら出ては来ない。

 この国にはおかしなことは、たくさんある。

 山歩きや海での遊び、その延長線上には、そんな歴史の再考、愉しみは尽きないんだな。

 歴史小説は推論から物語を書き始めるが、それが学校の教科書に載るようになると、昼行燈の嘘ばかり。

 嘘の上で平然と論争を始めるのも人間と言う間抜けな生き物だが、退屈の上で無駄を積み重ねる、ならばいつも新鮮な山や海を謳歌する、これだろうな。

 

 昨夜は、眠れないので葛飾北斎の波を眺めて居ったら・・・北斎の波の作風に大いなる影響を与えた南房総の奇才、波の伊八のことを想い出して、独り合点して居った。

 影響を受けた葛飾北斎から、ゴッホやピカソという西洋にまでその作風は続き、覗き画法という、波を彫刻で彫らしたら右に出るものはいないと言われた奇才だが、伊八が欄間に彫った古い寺院が地元南房総にはいくつかあり、そのひとつの開祖は、武田勝頼の嫡子信勝だという。

 南房総には、伊予が岳という、千葉のマッターホルンとも呼ばれてる可愛い岩山があるが、伊予とはどこの国だったろう。

 むかし四国の漁師や海賊が黒潮に流されてよく南房総に流れ着いておった、そうして土着している。

 土佐の高知にも勝頼夫妻の墓はあるし、変名で建てた寺の開祖は字は違えどもカイセン和尚だし、高知出身の三菱の創始者岩崎弥太郎の家紋でもある三階菱は、まぎれもなく武田の一族の家紋だった。

 勝頼は雲隠れして高知に流れ着くまでに各地を転々とし、京都にもいたとも言うし、天目山の戦いに敗れて3か月後に、本能寺の変は起こっている・・・

 その後も武田の家臣たちを厚く遇して雇い入れていた徳川家康・・・その家康ですら早い時期に風魔の棟梁と入れ替わっていたとも言われておるが・・・

 秋の夜長でもないのに、おら眠れね~だよ。



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