腹のパウチを貼る個所の傷の治療をやってるから、山へは向かえなくなってる。
片目も見えずらくなってるから、安全なことではあるが、気分は良くないのは、言うまでもないことだ。
買い物や出掛けたいという高齢者たちには、吉報だろう、連れて行って!! となる。
車はガソリン車からEV車の時代へ、低公害・地球に優しい車作り・・・という嘘がある。
電気自動車に使われるバッテリー・蓄電池は定期的に交換しなければならず、これは普通ゴミで出せるようなモノではなく、身体に悪い有害なものな訳だが、これの処理についてはナニも考えてはおらず、いつものように新しいモノ作りだと自画自賛してるコマーシャルに、猿な国民は単細胞に騙されている。
ガソリン車だって、余計な要らない公害規制と言う厳しい規格を作ってるばかりに燃費が大幅に悪くなってるだけの話だったのが戦後の話で、そうやって国家あげての詐欺を、延々と続けている。
使い捨てられるバッテリーや蓄電池の山が、あちこちにでき、放射能漏れでは大騒ぎしてる国民は、貴方任せで黙って知らん顔でもするんだろう。
人を見る時は、その人の生きてる生活の糧が、いったいどこから出ているものなのか? を見抜けば、簡単にその人の価値観や生態が解るものだが、企業や組織でも、それはおなじことだ。
われわれ不動産屋は、売却依頼を受けるとまず最初にその不動産の登記簿を見るが、それで依頼者の生活や人となりが見えてしまうことも多い。
・・・なんでこんなに担保がついてるんだ? やけに金利の高い金貸しばかりだな、差押も喰らったりしてる、個人名の金貸しからも借りてるな~、なるへそなるへそ・・・すべてがお見通しになる。
ほらほら、足元が丸見えになってるぜ。
裁判所に行けば、傍聴できる裁判があり、一日、そこに座って聞いているのも勉強になる。
素敵なコマーシャルが年中流れているのを阿呆みたいに聞いてせっせと競って消費しているよりも、同じ企業の違った一面が傍聴席ではあからさまになるだろうよ。
整形して、化粧を施しても、尻の拭き方やションベンの仕方で見えて来る人間性というものがある。
入口は着飾っても、出口が不潔で杜撰な者は、隠しても、じきに・・・そんな・・・という本性が露呈する。
そんな小キツネに騙されるのは、騙される理由が必ずやあるからだが、自業自得だと放り捨てられる前に、お勉強しなさい。
当社は成約数の95%以上が、すでにご紹介かリピーターとなっている。
新規に顧客獲得のための営業がいっさいいらなくなってる。
昔はそれでもご紹介と言われてやってくる人にもイロイロあって・・・え~? なんで? 嘘くさいな~!・・・というケースも多かったが、それはご紹介していただく方の足元に問題があったという笑い話で、そういう方々はすでにいらっしゃらなくなった。
古い周旋屋というものは、仲の良いいろんな専門家ともお付き合いは多いが、古い分、おかしなのも淘汰されている。
頼んでもいないのに当社の企業情報を適当に掲載し・・・確認なのですが・・・とやってきて・・・こんな売り上げだったら、年に高級外車を5台も6台もキャッシュで買ってたり出来るかいな・・・と、怒らせる。
零細企業でも、社員一人当たりの売り上げ比率は、大企業にも負けない。
そうやって本当の話を聞き、掲載し直しますので、掲載費として幾ら出してください、会員に正式登録してくださいと話を進めて行く。
これは昔の民間企業調査機関のやってたことだ。
有名な企業が二つ三つ大企業になってるだろう。
・・・ふざけた営業をやってんじゃ~ね~よ! とっとと失せろ!!・・・と、叩き出しておった。
株式投資の材料にしている企業情報なんざ、そんなところから始まっている。
どんな企業も、駆け出しの頃は詐欺師とおなじで、それを喋らせたらキリが無いくらいにある。
・・・テレビで放映されると、お客さんがたくさんやってきますよ! テレビの効果は絶大です!!・・・も、昔からだが、雑誌や新聞もそう、手を汚さないように制作会社という別会社に受注は取らせている。
高度経済成長と自惚れていた時代から、そんな営業は社会全般で普通に行われていたし、いまでは視聴者・国民の軽いオツムの洗脳が進んでいるから、自由自在に事実という報道の間に詐欺は挿入され、事実という報道ですら、自作自演の創作詐欺も増えてしまってる。
解説や解釈のしかたも国民の代弁者と言う嘘くさい肩書でやってるうちに、多くの国民は代弁者の言うことを無意識のうちに自分の意見にして生きるようになってる。
こういう社会を、猿芝居だと言い放っているのが、俺だ。
不動産屋のつく嘘やキレイごとの詐欺は、社会のそういった嘘の先を行っていたもんだった。
大笑いするところだが、せっせと財布を抱えて走り回ってる国民は猿だろう。
政治や医療行為というものは、本来は本業でキチンと稼いでおいて、その自腹を切って他人に対して行うべきもので、それ自体を生業にしてしまうと、現代社会のような酸鼻なこととなる。
怪しい守銭奴や成金ばかりになって、馬鹿や阿呆と呼ばれる子孫が溢れ返っている。
金を誇示したり持っていることを吹聴している人間に寄りつく異性は、金のかかる人間ばかりになり、そういう狭いサークルでしか生きて居れなくなってる。
消費でしか、愉しみは得ることもなく、消費だけが、生きている意味になってる。
貧しい者は金を持つことを夢見て消費し、金持ちも消費することにしか楽しみが無い、なにが違うのか?
俺にはおなじ猿の田楽踊りにしか見えない。
挙句に酒に溺れ、麻薬に溺れ、ギャンブルに溺れ、刺激欲しさに殺し合いを始め、社会の藻屑と消える。
小学生でも知っている、スポーツ競技・オリンピックの発祥とおなじさ。
寺や神社が徴税で免除されるのは、訪れる者には無料で対応しなさい、そういう意味もあるが、御朱印やお守りに祈祷、みな金を取っている。
勘違いも、甚だしい。
一芸で生きるのは、楽なもんだ。
楽を選ぶ程度の奴が、神や仏を語れるのか?
俺は自分で神になり、自分で仏になり、この地球で笑っている。
関わって、知り合っている人の数は果てしなく多くなってるが、親友とか友人とかは必要としない。
身内もまた、自分の責任と言うことだけで付き合っている。
そこに感情の入る余地もない。
無理だと想えば、身内でもスパッと縁を切る。
大人の生き方とは、こういうものだと想っている。
良い人になる、みなに良い人だと言われて生きる、これは禍根を残すことになるのは言うまでもない。
そもそも、良い人なんて人間は存在する訳がなく、良い人だと自分で自惚れているか、良い人だとまわりが錯覚しているか、そのどっちかしかないのが本当だ。
人は皆、ぜんぶが、悪い人だ。
俺なんざ、悪の最たるもんだと思ってるからこそ、自分で神にすらなっている。
善行なんて在りもしないことを、ただの行為・行動として形式化するから禍根は拡がるし、それが定着してしまうとそうでない行為や行動は、悪いことにしかならないという話になる。
自由自在でエエのんさ。
勝手気ままでエエノンさ。
独り暮らしの身寄りの無い高齢者や、生活保護受給者、年金受給者の孤独な老人達と関わり合っていると、いろんなことをしてあげなければいけなくなるが、見返りなど、ありがとうの言葉すらない。
金も自腹を切り、やり過ぎたり親身になると余計なお世話でしかなくなっている。
それでナニか良いことでもあるのかと問われれば、ナニも無い。
疲れるだけの話だ。
それでも関わった以上は、俺はやる、そんだけのことだ。
国や公共機関が逃げて近寄らない連中の世話を、仕方がないから続けている。
金に不自由をしないときは、本人もまわりの人間も、その豊富な消費意欲で別に人間性など問題にはならないが、金がなくなった時に、その本人やまわりの人間がいかに幼児で、中身の無い人間ばかりだったのかが見えて来る。
ゼニカネで誤魔化せるのはほんの数年のことだし、中身の無さは退屈と隣り合わせ。