オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

子育て終われば高齢の両親の介護

2021-11-12 11:55:42 | 高齢化・介護という金儲けの呪縛

 

 認知のおさまった92歳の爺様が、朝から機嫌が悪いと、87になる婆様から聞いた。

 地方銀行の東京支店に付き添って、口座解約やらの手続きをしながら、話を聞けば・・・また無駄な浪費癖が出て来て、いらないものばかり欲しがって、だから今朝は怒ってやったっちゃよ・・・

 銀座の近くに住まわせてから、言葉がおかしくなって、どこの方言かわからない言葉を使うようになってる。

 新聞の通販のグルコサミンを欲しがったという他愛もない話だが・・・まだ歩こう! 元気でいよう!・・・という意思表示だと思えば、そんなもん買わせてやんなさいよ、ということでとっとと俺が注文しといてやった。

 車生活だった田舎暮らしから免許も返上、無駄に広く古い実家も売却、家財の3分の2は処分して、先祖代々の山の墓にも挨拶を済ませて、いらい日常の食い物も俺が年中頂くモノを回してやるだけで充分、他に金がかからなくなったと喜んでる訳で、メスとオスの違いがことの原因ではあった。

 夕方、娘夫婦の旦那が、美味しい手料理を作ってあげるというので二人してやってくると聞き、それでも認知がおさまったばかりなので、先に顔を出して機嫌を良くしておいて、揃ったところでお暇してきた。

 今朝はすこぶる機嫌が良くって、昔話に花を咲かせているという。

 幼児と接するのとおなじだが、オツムの方は切れ味鋭いまともな話もすることがあり、こうやって人間は土に戻って行くんだろうと笑って見守っている。

 

 大企業の、不動産関連会社の執行役員や営業のトップに就いてしまった後輩連中は、みなその生涯・老後から自由というものを奪われてしまってる。

 付き合いやまわりの目やいろんな拘束の中で、その後も生きて行くことになる。

 若い時分に、そんな未来を予測出来ていたものだけが、とっとと油の乗ってるうちに、自営へと舵を切っている。

 その後は生きている価値観すら真逆の、のんびり悠々と生きてるのが多い。

 しょせん、社長・役員と言えども、大企業では雇われサラリーマン、いろんなグループとの関わり合いで一日が終わってるようなもんだ。

 社会にいながらも、その社会を自由自在に回遊できない養殖のマグロみたいなもんだ。

 ただ給料が多くなり、見栄や虚栄心や競争心だけが満たされる訳だが、その後半の老後は、哀れなもんだ。

 キレイごとで生きている以上、しょうがいないことだろう。

 その身体がガタガタになったとき、キレイごとはいっさい通用しなくなる。

 

 貧しい人たちや、競争に明け暮れている人たちは、無駄で無意味な消費活動が多すぎる。

 他の同類が動くと、すぐに競争でもするかのように、焦って消費活動に飛び込んでいく。

 メディア奴隷そのもので、日常の価値観も洗脳された間抜けなタコ、不動産の現場で40年も営業という仕事を続けていると、本当の余裕のある賢者という生き方を自分で作って生きてる人たちの自由奔放さが、際立って見える。

 俺はそっちの側に近いが、それでもそっちの側にも、いない。

 メディアが取り上げられない、無視せざるを得ない、そんな人たちもたくさんいることは言っておこうか・・・。

 

 昔むかし、山賊や海賊という、定住しない連中が厳しい山や海で自然と共生しながら生きておったが、そのまんま放置しておくと人心管理が出来ないという理由で、無理やりに陸に定住することを国家に強制された。

 収入の管理と徴税、動きの監視、延々と続く国家権力の乱暴狼藉。

 次にやったことは、人間の一生を繋げてしまう、人間の感情を決めつけてしまう、昨日と今日と明日は繋がっていると強制し、こういう時には泣く、笑うと、だから今の生き方価値観をこうしなさい! と、能書きを垂れる。

 結局のところ、坊主や神父の役割は、いま生きてる人間の抱えてる矛盾や不条理の自己弁護のお手伝い、歪んだ自己正当化を一緒に隠してあげましょう、人の弱みにつけ込んで、現世の現実しか見てはいないだろう。

 定住させた後はその繰り返しで、おとなしい奴隷庶民の町や村が、あちこちにできて監視させ合えば完成だ。

 それから葬儀と墓地だ。

 どこへでも遺体を放置することは許されず、葬る場所も申告しなければ犯罪となり、その後の遺族も責められることになり、供養や想いとは関係の無い、葬儀・埋葬という習慣が作られた。

 すべてが阿呆クサイ猿芝居。

 葬式での泣いたり悲しんだりの光景も、作られて洗脳された感性からのもので、よくよく見て居れば今の自分の自己弁護、やるべきことをしてなくとも、そこで泣けば全ての後悔が許される、そんな甘ったれた庶民の自慰ばかり。

 上も馬なら、下も鹿、滑稽な笑い話の出来上がり。

 嫌なら泣くこともないだろうし、笑ったっていいわけだし、いちいち通夜や葬式だって、やる必要もないわけだ。

 無意味な高齢化社会が続いて行くと、そういう時代になって行く。

 国家権力から見ると困る時代になる。

 先祖供養をしなければ、死者の霊を弔わなければ、死んで地獄に堕ちると聞いて、いまさら真に受けてる間抜けもいないだろう。

 供養とは、今、その血を継いで、現に生きている者の、その時々の生き方そのもののことを、言う。

 地獄とは地下12階も格付けがあり・・・地球の中を貫いて、ブラジルに出てしまう。

 地獄でサンバでも踊るんかいな?

 嘘の歴史や習慣と言う、利得だけで作られた社会の風習は、こうやって老朽化し、粉々になって行くのが常だ。

 祭りや試合や見世物は、庶民の目を醒まさせないようにするための、ただのガス抜きだ。

 ・・・ずっと、夢の世界で生きていなさい!! そんな暗示でしかなくなってる。

 

 形式や、常識や良識、習慣や風習、しきたりに礼儀というモノは、いかがわしい嘘を隠すために作られている。

 自由でエエで!! この一言で、いかがわしい大人社会は硬直してしまうことだろうし、どうして良いのか解らなくなって、置物の庭の蛙みたいな面して、呆然と立ち尽くすだろう。

 これを、阿呆と言う。

 


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