都内の街では花粉症と言われ、アレルギーだと言われている連中を連れて、杉や檜のたくさん生えている山に行くことは、最近は減ってしまってる。
鼻水が止まり、目が痒くなるのも止まり、マスクをはずして元気いっぱいに呼吸器を使って新緑の木々が吐き出す美味い酸素を吸って、源泉に浸かって戻って来ていた。
何十年も前から続けていることの、片鱗を見せてやっていた。
俺自身も銀座の街で仕事をやっている時は、偏西風にのってやってくる黄砂や光化学スモッグに目や鼻をやられて鼻水や目が痒くなることはあるが、山では昔からナニも起こらない。
詩で素敵に謡う春霞とは、ほんとはキレイな話ではないんだよ。
なんでもそうだが、メディアの吹聴や専門家には騙されず、トコトン突き詰めてみればその嘘は見抜けるんだが、小心者やヒステリックな現代人には難しいんだろう。
大人になってない大人社会の衰退は、なんでもメディア主導で拍車がかかってる。
花粉症やアレルギーという名称には、大きな嘘がある。
それを治療する為に投与されてる薬を使えば、もっと別の症状が出て来る。
終わらない医療行為と投薬で、儲かっている連中のことを考えるべきなんだが、その医療行為をやってる医者ですら、すでに騙されて踊らされてる猿ばかりになってる。
マニュアルに忠実で治療にあたることが、優秀な医者として重宝される時代だ。
おかしなもんだが、その嘘を激しく糾弾すれば、社会からは陰謀論と烙印を押されて抹殺されて来た。
どっちが陰謀論者なのかの判断は、メディアの陰謀で明らかなことだろう。
皆さんが生命を弄ばれている資本主義社会のルールとは、そんな程度の安っぽいもんだ。
ということで、昼前まで春眠を貪って、1000m前後の低い山々をたっぷり歩いてきたが、年に何回かしか近寄らない山小屋のある山々は登山者も多かった。
いつもは2000mくらいの獣の楽園、人間のいない広葉樹の森を歩いてばかりいるから、杉林特有の懐かしい匂いを堪能させてもらった。
登山道はよく踏まれているから登山道とも言えず、幅も広く、先週の渓流渡りで足首を捻挫していた者も同行していたが、使うことで治りも正常になっていた。
大事にすれば人間の身体はすぐにその楽に順応して、身体の持つ限界の幅がどんどん狭くなってゆく。
老いは倍々の速度で衰えが進んでゆく。
使わなくなったモノは、退化してゆく進化の原則そのものだ。
日常生活のあちこちに、そんな現象は起きているだろう。
下山路は十年ぶりくらいに歩く谷筋の滝と急降下の道を選んだが、あんまり登山者が歩いてないようで、倒木や落葉やで道が解りづらい箇所が多かったが、何十年も山を歩いている爺ィには、別の愉しみを持って歩いていた。
そういう場所にこそ、自然の新しい発見はたくさんある。
長袖のTシャツ一枚でも、大汗をかいて気持ちよかった。
いつもの45Lの負荷を詰めてある重いザックではなくって、35Lの軽い奴を背負っていたから、足腰は軽快そのもの、登山靴も雪山用のごっつい奴ではなくって夏山用、幾つかの頂では懐かしい汁物や山菜の天ぷらを喰らって、簡素な調理道具すら使わなかった。
近隣に良い源泉がなかったのでオストメイトの湯支度は持たず、同行者が面白がって見たいと言っていた中央道添いの看板で有名なきぬた歯科を見せてやり、買い物もしておいて、山の帰りによく立ち寄ってる賑やかな大衆中華で目いっぱいに旨い中華を喰らって来た。
しっかりと日焼けをして戻り、深夜に腹のストマのメンテナンスとパウチの交換をして爆睡した。
山では小虫が群れて飛び回る季節、腹のパウチを取り換える風呂では何匹かの小虫がシャワーで身体から落ちておったがな。
ところで、人が亡くなったら、とっとと見世物にしてないで火葬してあげることだ。
66年の人生を生きて来て、多くの近親者や仕事柄に関わった人たちを送って来てるが、葬儀だの火葬だのと大勢の人間が出入りして、遺体を猿芝居の道具にしている景色は、ガキの頃から胡散臭い違和感しか感じない。
すでにモヌケの殻となってる遺体を仰々しく扱うフリをしながら、生きてる者らが自分を売り込む小道具や金儲けに晒しているのは、おかしいだろう。
だから俺の代から、死んだら簡素にとっとと火葬することを実行している。
あとはとっとと地球に還してやることだ。
窮屈な骨壺に入れたまんまで、地球に還ることすら叶わず、コンクリートの中で陰気に扱われるなんざ、愚の骨頂だ。
地球の土に還す、これが一番。
先祖の祟りや恨みを騒ぐ馬鹿が言ってることは、そのやってること自体がそれに値する笑い話でしかない。
我が国の歴史については、ガキの頃から相当な書物を読みこんで紐解いて、その現場にも何度も出掛けて、嘘と真実について自分の肌で考える方法をずっと繰り返して来てるが、そうやって生きて居ると戦国時代までの島国の慣わしが本当の日本だろうと気が付いて、自分自身の家長としての価値観も出来上がって来た訳だ。
西洋に色付けされた浮ついた歴史は江戸時代以降の嘘と自作自演ばかり、脚色と虚飾で彩られた歴史は今でも義務教育の教科書を飾っていたり、風習や習慣として残っていたりするが、実際はぜんぜんに違うということは肌で解ってくるもんさ。
喧々諤々、いろんな言い争いや討論は昔からたくさんあるが、そのほとんどがどちらも真実を知らない上っ面の争いでしかなく、奴隷同志の餌の獲り合いの域を出ない。
その愚かな騒動によってメクラマシをされているくらいで、真実はいつも表には出ないように、歴史は歪められて受け継がれて行ってる。
さ、ワザと獣道を使って急斜面を一気に下山したしっぺ返しの全身の筋肉痛で、ゆ~るりと仕事を始めるべ。
日焼けした顔がヒリヒリ痛い。