腰痛やら体調不良の中、マスクをして山用の小さい車で、89歳と88歳の身内の婆さん二人を連れてメガネを作り直しに出掛けていた。
途中で熱を測ったら38度5分、インフルとかコロナではなくって、身体のどこぞが腫れていると考えていたから、高齢者に同行していた。
案の定、深夜に腹のワンピースのパウチを交換する時に大量のどす黒い血液が風呂場の床を汚し、キレイに洗って血を出し切って、シャワーの湯でもヒリヒリと貼付部が痛んでおった。
無事に自分で荒治療は終えて、ツーピースのパウチを付けて、ハイ! 完了。
色々とオストメイトの装具は起こり得る事を想定して持っているから、すべて自分で即対応できる。
朝には熱は平熱36度3分、まだ身体中が痛いが、これは発熱と膿の事後の症状。
熱が出ると喉の扁桃腺が腫れるから、イソジンでうがいを徹底、葛根湯を飲んでおいて仕事を始めている。
これで週末の氷点下の雪山行きは、大丈夫。
愚かな現代人のようにマニュアル猿の内科医にでもかかっておれば、やれインフルだのコロナだのと検査されて薬漬けだったろう。
念のために今朝は高齢者たちに確認の電話を入れたが二人とも元気で、来週も出来上がったメガネを取りに行く時に南房総の方に花見と旨いモノを喰いに行く約束をしてやった。
常に誰かの為に日常を過ごしているのは、すでに自分自身のことではナニも無くなったということだろう。
俺自身はナニも欲しいモノもなく、ただただ高い山の上から素敵な地球を眺めおろしていたい。
そんだけだな。
欲ボケの阿呆な守銭奴連中や自意識過剰な猿の群れが、よ~く見えておるがな。
ウクライナやイスラエルの動きは、敵対し合う双方に米・英の息がかかってる連中が大勢入り込んでいるから、共倒れするまでBRICS諸国の国々は手出しをするつもりもない。
米・英が育てて支援して来た双方が、そこで殺し合いを続けているだけのことだ。
正常な覇権争いだとか、正常な領土争いとはまったく別の殺し合いになっている。
日本の社会には、先に借金・負債を負って返済しながら生きている人間と、無理はせずに正直な今の持ち金で出来る最高の日常をいつも知恵を出して創造して生きている二通りの社会が存在する。
親の財産を引き継いだだけの大人や、貧しいのに苦学して成功をおさめたという手合いも、前者に入る。
自分だけが存在する新しいカテゴリーで生きてる訳ではない。
多くの人たちは住宅ローンを抱えても、持ち家というただの虚勢と虚栄なのに、それに固執して、こんどは返済が終わる頃には大規模修繕や改築・建替えを迎え、新たなローンを組むハメになってる。
新しい時のモノは綺麗で良いが、住宅ローンという負債が無くなる頃には、次の負債が出来てしまうようになっている。
自転車操業という奴は、宝くじでも当たらない限りは、一度嵌ったら抜けられない。
税金も2重3重に巻き上げられて、メディアから流れる素敵な話は夢物語だったと知る年齢では、残債は退職金や死んで保険で支払うしか、その輪廻の輪からは抜けられない。
老後の日常にも金はかかる訳だし、施設や介護にも金はかかる。
金のかかることばかりの生活の中で哀れ提灯な何度もうったワクチン接種、自然免疫を壊されて難病や奇病にでも罹ればこりゃ~地獄の沙汰だろう。
キャピタルゲインで沸いていた時代ならともかくも、仮想経済の終わりが近づいている今、どう生きるのかは、あなた次第。
俺は65年間、後者で生きて来てる。
ナニよりもゼニカネに縛られる日常が送れない、月末になると返済で慌てる愚かな日常が送れない、他人とおなじ日常は送れない、だからナニもないところから出発しても、いまだに借金や負債は負うこともない。
貸し借りですら、いっさい持たない一期一会で生きている。
ただただ精力絶倫な男根ふり回して身内を増やし、笑って生きてる。
借金・負債を背負って生きる小さな世界に籠もり自閉すると、完済してもまた大きな借金・負債を負って生きるようになる。
他に楽しみが無い、能が無い、自分で道を作れないからだ。
もっと言えば俺は紙幣や財産と言われるモノにも興味はなく、仮想の代替品に夢中になるような浅はかなオツムでは生きてはいない、そういうことになる。
みなが同じモノに同じ価値を見るから、誤解と錯覚と自意識過剰で社会は回っているように見えても、その実は中身の無い貝殻、そんなことだろう。
NISAだとか、新NISAだとか、これは儲かって利益が出た時に優遇されるという詐欺みたいな話で、良い時の話ばかりが花盛りなのは、昔からの酒屋の御用聞き。
話題が貧困で、常にメディアの報道が話題の主になってるようなチンチクリンばかりじゃ~、こりゃ~国民も右に倣えで国家も崩壊して行くわいな。
選挙に行かなければ文句は言えない、政治に興味を持って投票に行きなさいと言われても、その投票集計マシンがインチキし放題なAIロボットであれば、なんの意味もない。
昔のように街の体育館等で、衆人監視の中で一枚一枚を分けてゆく、メンドウでも民主主義ならばそうすべきだろう。
街のゴミを拾ったら、買い取ってやる、そんな地方公共団体のサービスが始まれば、少しは街もキレイになるんだろうが、タダ働きや無償の他人や社会への奉仕という活動はなかなか続かないもんさ。
当社の前の京橋公園には、30年以上も前には、浜さんというホームレスが棲み付いておって、雨が降ろうが雪が積もろうが、毎朝と毎夕に箒を持ってきれいに掃除をしておったもんで、俺も仲良かったから深夜や早朝に差し入れを続けていたが、老いて時代が進めばそれも叶わなくなり、自分だけ良ければそれで良い、そんな風潮は滲みついている。
それが島国の日本人の本性だ。
腐り切った腐臭の中でも、カラカラに乾き切るまでナニも変わらない。
それこそ自分たちだけ善人だと自惚れて、島国の中で小さくまとまって、他はぜんぶ敵だとか悪だとか、あちこちにそんな集団が出来上がっておって、それこそが島国の猿の最良の管理・飼育のマニュアルではある。
人間の怠惰・楽を求める思いを弄んで、終わらない消費生活を続けさせているうちに、地球上の大自然の中で生きて居るという現実を忘れ果て、欲ボケな猿となり果てている人間は、どんどん大自然の中で孤立を深め、環境に適応するという性質を失っている。
地球や宇宙や大自然をコントロールして、生きて行けると自惚れている。
これがすべての終わりの始まりに繋がっている。
どこかで止めなければ絶滅種となるが、自分たちだけは大丈夫だと、皆が思って全体が滅んで行く。
馬鹿げた話だが、資本主義社会という嘘が、個々の欲望を搔き立てて、涎たらしが社会に充満していれば、じきに酸欠になって惨めな末路を迎える訳だ。
楽しむものは与えられた命題に答える解析ではなく、ナニもない場所に自分の道を作り、誰とも違う彩りを添えて、誰も通ることもないだろう険しい自分の道を藪漕ぎしながら進み、時に振り返っては、大笑いする。
また、もっともっと不思議な、摩訶不思議な人の道を作ってやろう。
そこには口をポカンと開けて、去ってゆく俺を笑って見ている猿の群れがある。
高い山での、いつもの景色とおなじだな。
生きるということの本質は、正解を求めることではなく、どんな愉快な生き様を作り上げたかであって、それは生涯を貫いてひとつの詩になっておれば完結する。
地球に生きる獣のオスの、在り方だ。