オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

孤独死の凄惨な遺体と、あと始末

2021-12-21 09:05:05 | 銀座の周旋屋

 

 孤独死と言う言葉は、皆さんも大好きなテレビや新聞で目にすることは多いだろう。

 そんな現場の第一発見者になることが多い俺みたいなオヤジには、ただのキレイごとにしか思えない。

 他人事で、気持ち悪い、傍観者として、見て見ぬふりをしながら、興味は深々。

 昨日も、そんな現場に居た。

 あちこちに身寄りの無い秘密主義な高齢者たちが巣食う古いアパートやらを管理していると、一年中・・・死んだ死にそうな死にたい・・・独りぼっちの高齢者に関わっている。

 そもそも、俺は自営だからナニからナニまで自分で責任を負って稼いで居らなければいけない身だが、その忙しい合間にもこうやって色んなことをやっている。

 公共の機関等にはいつも連絡をしてはあるが、限界というものが、ある。 

 見捨てられた多くの高齢者たちが、老いて自分から選んだ孤独の中で、死んで逝く、これは仕方の無いことではある。

 仕事を終えて、酒を呑む、勉強を終えて、欲に浸る、そんな社会の縮図である以上、仕方の無いことだ。

 それは現代社会に生きる人間の、自らの身にも戻って来ることだ。

 俺が動く高齢者にも優先順位があり、身動きできなくなってる高齢者や、重病を抱えている高齢者が先になる。

 2ヶ月前に1回、元気だった年金受給者の爺様のところに顔を出し、家賃を回収しておったが、その時にやっと携帯電話を持ってくれて、訪問しても居ないという徒労から解放されたと喜んでいたんだが、ナニかあったら電話しなよ! と言ったのに、ナニかがいきなり訪れると、携帯も役には立たなかった。

 先に、区の包括支援センターの仲の良い担当者に、別の死にかかって動けなくなってる爺さんの元へ同行して、年末年始の食べ物の支給と声掛けを頼んでおいて・・・別棟の1階の爺様が連絡取れないから困ってる・・・と話して帰したあとに、悪い予感がしたから再度訪問してみた。

 玄関ドアは施錠されてないことが多かったから、声掛けして、ドアを開けてみると、すぐ目の前に黒ずんだ裸足の足が見えた。

 ・・・あ~、駄目だ!

 中を覗くと、すでに息絶えて、顔が腐り始めていた爺様がのびていた。

 だいたい死臭で解るもんだが、それもなかった。

 警察に連絡し、貸主の成年後見人弁護士にも連絡し、それから4時間近く、鑑識が遺体を袋に入れて帰るまで、寒い中で付き合っていた。

 2年前、真上の部屋でも爺様が孤独死してる。

 消防車が来て、救急車が来て、パトカーが来てと騒々しかったが、身寄りの無い独り暮らしの爺様ばかりが住んでいる古アパート群では、あくまでも互いに干渉することもなく、無関心な状態だから、誰一人として部屋から出て来る者はいなかった。

 また、誰かが亡くなった・・・そんな無感動なことなんだろう。

 癌で糖尿で動くことも出来ない老人もいる。

 金も無いから入院も出来ない。

 寒い現場で関わってる皆に、同じことを言ってやった。

 ・・・われわれに出来ることは、食い物や飲み物や市販の薬を自腹で買ってやって届けてやることが限度だな。

 ・・・それだけでもなかなか出来ることではないですよ。

 そんな会話には、空虚でもなく諦めでもなく、これからも頼むよという、薄い笑いしかなかった。

 生命を救うことが大事、良い悪いではなくって、生命こそ一番、それで俺は動いている。

 誰しも、愛嬌があってヨチヨチしていた可愛い時分があった。

 だからこそ、相手が誰であろうとも、その生命こそ大事。

 社会に忘れ去られてしまってるこうした高齢者たちは、ただただ部屋で死ぬのを待っている。

 そうしてその後始末は俺のようなお節介な周旋屋がやっている。

 脱力感は半端ないが、誰かが送ってやらなければいけない訳で、その役をいつもやっているようなもんだ。

 当然にすべて持ち出しで、見返りや、言葉すら無い。

 自分で時間をかけて、すべてを作って儲けたバブルの利益を、俺自身がクタクタになるまで地べたを這い回って、使ってみせる、ザマ〜みろよ! だな。

 ゼニカネなんて、そんだけのもんさ。

 遺体を入れた袋を担架に乗せ、アパート群の入り口に置いて、鑑識が部屋の最後の戸締りをしに行ってるとき、黒白の一匹の野良猫が遺体に近づいて来て、くんくん臭いを嗅いで、頬をこすりつけていた。

 優しい爺様だったから、餌をやっていたんだろう。

 袋の上から爺様の頭をたたいてやりながら・・・あんたにも、見送ってくれる奴が俺以外にもいたじゃ~ないか。

 忙しい毎日の中でも、こうやって色んなことが起きている。

 年を越せないだろう高齢者も、何人かいるが、そうでない高齢者も、亡くなってしまう訳で、俺独りに出来ることを、目いっぱいやってやるしかない。

 今日も忙しい合間に、差し入れやらに出掛けてやる爺様もいる。

 安楽死を認めてやる必要を、こういう現場ばかりこなしていると、痛感するよ。

 金も無く、身寄りもなく、話相手もいないし、動けない・・・どうやって生きて行く楽しみを手にするんだ?

 国や公共機関は素敵で優しい宣伝広告はするが、職務上の限度がある。

 みな、キレイごとの上で生きている。

 しょせんは他人事、新聞やテレビでは決して報道などされない孤独死は、どんどん増えて行ってる。

 

 膝はまだまだ完全に治ってないんだが、今週末は高い山に登って、また空高く死んだ爺さんの魂を放ってやんべ~よ。