アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

史跡左036  岩倉具視 旧邸 

2018年07月24日 07時05分36秒 | 史跡・旧跡

文久2年(1862)9月から慶応3年(1867)までの5年間、明治維新に功績のあった岩倉具視が幽棲したところである。昭和7年3月、「史跡」に指定された。具視は、幕末の騒乱に際して公武合体を進め、皇女和宮の将軍家降嫁に辞任緑したが、倒幕急進派の弾劾を受け、文久2年9月官職を辞し、西賀茂霊源寺で剃髪し、ここに蟄居した。慶応3年には維新運動の中心になって活躍し、のち明治新政府の右大臣になった。

現在、幽棲旧宅、文庫、管理人宅の3つの建物がある。旧宅は西北にあって平屋建茅葺と瓦葺の2棟からなる。茅葺は玄関座敷で約60㎡、瓦葺1棟は居間勝手等で約74㎡、具視幽棲時の旧態をしのぶことができる。旧宅の東側にある文庫には具視関連の品々を陳列している。庭前には具視の遺髪塚とお手植えの松がある。

 

 

 

 

隣雲軒

元治元年(1864)、大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入して主屋を増築したのがこの旧宅です。岩倉具視は元治元年から

慶応3年(1867)11月までの約3年間、この旧宅で暮らしていました。昭和7年(1932)に東伏見周子(岩倉具視の孫)が「隣雲軒」と扁額に揮毫して名付けました。なお、旧宅正面の庭は昭和3年(1928)10月の建物修復の際、庭園手入として7代目小川治兵衛が関わっていることが近年明らかになりました。

1862年6月12日(文久2年5月15日)、岩倉具視は左近衛権中将に転任した。前年10月の和宮東下の功績によります。岩倉にとってのこの世の絶頂の瞬間です。しかし岩倉の明治以前の出世はここで止まり、この後、暗殺の予告を避けるために11月4日(9月13日)には洛中を出て、霊源寺、西芳寺と移り住み、ここ洛北岩倉へ辿り着くことになります。

対岳文庫

洋館を入った所の展示室の扉の上に「対岳文庫」と書いた扁額があります。対岳文庫設置の翌年の昭和4年春に岩倉具視の孫である東伏見宮周子が揮毫したものです。対岳文庫では「岩倉具視の生涯」や「岩倉家の人々」などの資料を展示しております。

 

関連記事 ⇒ 人物046 岩倉槇子

史跡前回の記事 ➡ 史跡左035  千人塚 大文字山



最新の画像もっと見る