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石碑 藤井右門宅址・富山射水生まれ・先祖は赤穂浪士

2015年10月23日 06時45分57秒 | 石碑

 

 

藤井右門邸跡

この地に江戸時代中期の尊王論者・藤井直明(右門)の居宅があった。

右門は播州赤穂藩の遺臣・藤井又左衛門の子で、赤穂取り潰しの後、

父が身を寄せていた越中射水(現在の富山県射水市)で、享保5年(1720)に生まれた。

京都に出て竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。

宝暦8年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した「宝暦事件」がおこり、

右門は江戸に逃れて山縣大弐のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を抗議した。

しかし、幕府は明和3年(1766)、ある事件にかこつけて右門と大弐を捉え処刑した。

世にいう「明和事件」である。右門享年48歳。

それから約100年、右門らの唱えた尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。

右門の旧宅は、現在の同志社大学の地に薩摩藩邸があった関係から、

志士たちの会議連絡場所としても活用され、幕末維新の史蹟としても忘れがたい。

屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取り壊されたが、その翌年、右門の顕彰碑が建てられた。

  京都市

 

 

 

 

 

碑文の大意

 主張すべきことがあってもだれも主張せず、なすべきことがあってもだれもやらない。こういう時にいきどおって義を唱え、身の危険をもかえりみず後悔しないなどということは、特別な人でなければできない。そういう人は書物を読んで事の道理を明らかにすることによって形成される。皇室の力が衰え、幕府が権力をほしいままにしている現在、公家から庶民にいたるまで、口をつぐみ手をこまねくだけで、道理を主張するものはいない。

  当時,竹内式部という人がいて,京都で学問を教授し尊王思想を唱え,たくさんの公家などが師事していた。八十宮内親王の家臣藤井右門氏は早くから尊王の志を抱き,公家の間にネットワークを作っていたが,竹内式部の宝暦事件に連座し甲斐国へ逃れた。その後江戸へ潜入し,尊王家山県大弐と意気投合した。竹内式部は京都を追放されて伊勢にいて,藤井右門氏とも連絡をとりあっていた。大弐はその学説が幕府の嫌疑を受け捕らえられた。藤井氏はこれに連座し,はりつけの刑に処せられた。

  藤井右門、竹内式部、山県大弐の三人はいずれも山崎闇斎の学問を基礎とし、書を読み理を明らかにし、神道を奉じ正しい道を尊び,朝廷に対する忠義の心は深く,義憤を感じたらそれを外に表す点で共通している。そのため主張すべきことがあってもだれも主張しないような世でもはっきりと物を言い,なすべきことがあってもだれもやらない世でも実行し,朝廷の復権をめざした。目的はとげられなかったが,のちの世の人を発憤させたのである。幕府が滅亡し朝廷の復権がなった時,三人には功績により正四位が贈られた。

  氏は名は直名,藤井氏。越中の人である。京都へ来て藤井忠義の養子となり家を嗣ぎ,のち従五位下に除せられ大和守を授けられた。享年四十八。遺髪を京都柳図子の旧邸のかたわらに埋め,子孫が代々お守りをしてきた。

  ひ孫を多門といい,親戚の九成とともに岩倉具視公の知を得た。維新のころ,岩倉公のいた岩倉村には勤王の志士が訪ねてきたが,訪問したい者はみなこの二人に相談したという。先祖の名前に恥じない者である。

  最近,区画整理により旧邸の地が道路になってしまった。藤井右門氏の旧跡が影もかたちもなくなることを悲しむ者が協力して遺髪塚を移した。さらに石碑を建てて未来に伝えようと計画し,わたし(筆者西村時彦)に碑文を依頼したので以上のとおり叙述するものである。

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