アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

随心院  小町伝説が多く残る

2015年11月02日 07時58分38秒 | 寺院

南門

薬医門を見る

 

化粧の井戸への案内板

あの石碑があるところが井戸のようです

 

小野小町 化粧井戸 と彫られています

結構 大きくて 深い

水は ありませんでした 枯れています

 

下に降りてみてください といわんばかりに 下に降りる階段がちょうどいい具合にあります

降りてみました

 

井戸壁石

 

周囲の 竹藪

 

次に 小町文塚を目指します

右塀に沿って進んでいきます

道に歌を詠んだ石板がずーっと並べられていました

一般の人のもののようです、お寺がお世話をしたのでしょうか

 

途中で 石鳥居が建っていました

 

反対側から見ます

 

 

まずは 左へ行きます

 

小町塚 となっています  文塚なのかどうか

 

 

 踏み跡を 少し戻ると   侍女の塚

随心院

真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の8代目の弟子に当たる仁海僧正が正暦2年(991)に創建した。もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、その名は、ある夜、亡き母がに生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。僧正はまた、勅命をこうむり、しばしば神泉苑で雨を祈ったことがあり、小野僧正とか雨僧正といわれた。永承元年(1046)5月、96歳で亡くなった。その後、第5世増俊が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第7世親厳の時、後堀川天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されている。梅の美しい寺としても有名で、3月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。  京都市

 

小町の遺跡が多いが地名の小野郷に因んで生まれた伝説で、史実によるものではないようです。

 

 

先ほどの 清滝権現へ行きます

途中で 井戸ポンプがありました

 

 

 

 

 

もと 来た道を戻ります 

歌を書いた石板が並んでいます

 

来るときに見た 石鳥居

 

 

寺の南の端を通って戻っています

 

薬医門から 中を見ました  大玄関です

 

左は 庫裡

 

小野梅園

 

 

庫裡の前

謡曲「通小町」と随心院

謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ随心院である。その頃小町は現在の随心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷たかった。少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標に門前の゛榧の木゛の実を出した。通いつめた九十九夜  その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の゛榧の実゛を手にしたまま倒れ再起できなかった。という

随心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には゛榧の大木゛がある。 謡曲史跡保存会

 

 

京都市内に小野小町の墓(小町塔)と伝わるものが現在3ケ所ある。

随心院のものは、昔小野氏一族の住んでいた小野郷に当たり、小野氏出身の采女の費用をまかなう養田があったことから、小町宅跡説が生まれた。今も本堂には小町文張地蔵が安置されている。小町文張地蔵は高さ1メートル余、右手に錫杖、左手に宝珠をささげる通有の型で、光背は円形頭光とし、平安時代特有の円満な表情は、生前の小町の姿をしのばせる。また、その隣には、小町晩年の姿を写したといわれる卒塔婆小町坐像を安置する。また、小町が化粧水に用いたという小町井がある。

 

なかでも、小町塔は、五輪石塔の水輪5個を積み重ねた奇妙な墓で、まったく墓石の形態をしていない。

小町は平安中期の女流歌人として知られるが、詳しいことは不明のため、多くの伝説が生まれた。

 

庫裡の前の庭園

 

塔頭  大乗院

 

 

総門

下調べせずに行ったので、小町文塚にたどり着けなかった それは次回訪れたときに 探します



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