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人物046 岩倉槇子

2020年02月23日 17時56分41秒 | 人物数々

病床に伏した維新の元勲・岩倉具視を、明治天皇が見舞う絵がある。

床から起き上がり、手を合わす具視。そのそばに介添えする女性と、少し離れてひれ伏す女性がいる。

介添えの人は具視の先妻の長女増子。ひれ伏す女性は正妻槇子である。

「私は後妻の身。ここは、先妻の子を立てる場面です」と槇子自らが一歩ひいた。

翌日、具視は波乱に満ちた59歳の生涯を閉じる。葬儀は、日本最初の国葬だった。

槇子は膳所藩の武士の娘。若くして京都の御所の前(現在の京都地裁あたり)にあった岩倉邸に兄 賀柔と奉公に上がった。

兄は具視の身辺警護に当たり、槇子は身の回りの世話をした。

この兄妹の献身的な陰の支えがなかったら、岩倉具視は明治維新の表舞台に立つことはなかったといわれています。

具視は下級公家の子として京都に生まれたが、まもなく洛北の岩倉花園村に里子に出された後、14歳で岩倉家に養子に入った。

幼児期から苦難の歳月を過ごした。

妻誠子をめとるが、病気持ちで、側室になっていた槇子が実質、妻の役を務めていた。

槇子が具視のために賢婦ぶりを発揮するのは、この側室時代である。

幕末、公武合体を推進した具視は、尊攘派志士の反感を買い38歳の時、洛外に閉居させられる。

志士の刺客の手を逃れて、幼少の頃過ごした岩倉へと落ちた。槇子も子供を連れて追いかけ、同居する。

洛中の情報から遮断された具視は意見書を賀柔と槇子らに託し、

薩摩藩士との往復書簡で大久保利通らと意思疎通をはかり、自らの難関突破をはかる。

岩倉の里から、気丈な槇子は乳飲み子を抱き、帯の中に密書を忍ばせて田んぼのあぜを駆け抜け、

二里の道を、市中の薩摩屋敷まで往復したという。

賀柔も。夜陰にまぎれて洛中に出没、具視の胸の内を公家や志士に伝え、自ら密会にも加わった。

また、失意の具視を元気づけるため、長男具定と二男具経に、近くの岩倉川で小魚を釣らせて酒のさかなに。

とっくりを抱えて夜道を山端の平八茶屋に通ったという。

具視は四男六女の子沢山。うち槇子は二男三女をもうける。

具定と具経は、後の戊辰戦争で東山道先鋒総督と副総督を務めている。

明治天皇即位による大赦で具視は晴れて自由の身になる。

その後、王政復古を推進して明治新政権に参加。

1871年(明治4年)には特命全権大使として大久保、木戸孝允、伊藤博文らも参加した「岩倉使節団」を率いて欧米各国を視察、

文明開化の礎を築いていく。

5年余りを過ごした岩倉の里を後にした具視は東京に移住。新生日本のかじ取り役として栄華をきわめる。

槇子も、明治7年に正室の誠子が病没してから正室の座におさまった。

時に槇子47歳。名実ともに、政府高官夫人として、華麗なる家族を取り仕切るようになった槇子は、

正室になってからも、謙虚な振る舞いは変わることはなかった。

具視と槇子が苦しい日々を送った岩倉の家屋はいまも、維新史跡・岩倉具視幽棲旧邸として残っている。

槇子は東京都品川区・海晏寺の岩倉家墓所に眠り、

1868年、岩倉村で没した兄賀柔の顕彰碑が京都・東山の霊山に建てられている

 

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