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<考える>ことを、昔は<かむかふ>と言った。宣長さんによれば、最初の<か>には意味はなく、ただ<むかふ>ということだ、と。この<む>というのは<身>であり、<かふ>とは<交う>です。つまり、考えるとは、<自分が身をもって相手と交わる>ことだと言っている。
だから、考えるというのは、宣長さんによると、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることなのですよ。そうすると、信ずることと考えることはずいぶん近くなってきやしませんか。
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この抜粋部の前段にはインテリ批判がある。
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本居宣長を読んでいると、彼は「物知り人」というものを実に嫌っている。ちょっとおかしいなと思うくらい嫌っている。嫌い抜いてます。
彼の言う「物知り人」というのは、今日の言葉で言うとインテリです。僕もインテリというものが嫌いです。ジャーナリズムというものは、インテリの言葉しか載っていないんです。あんなところに日本の文化があると思ってはいけませんよ。左翼だとか、右翼だとか、保守だとか、革新だとか、日本を愛するのなら、どうしてあんなに徒党を組むのですか。日本を愛する会なんて、すぐこさえたがる。無意味です。何故かというと、日本というのは僕の心の中にある。諸君の心の中にみんなあるんです。会を作っても、それが育つわけはないからです。こんな古い歴史を持った国民が、自分の魂の中に日本を持ってない筈がないのです。インテリはそれを知らない、それに気がつかない人です。自分に都合のいいことだけ考えるのがインテリと言うものなのです。インテリには反省がないのです。反省がないということは、信じる心、信じる能力を失ったということなのです。
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結構、歯切れのいい言葉がポンポンと飛び出している。
でも、根底にあるのは人への信頼、歴史への信頼。
まあ、その時、先生は人を選んではいる。
でもその選び方は、柳田邦夫が選んだようにである。
それを証明するような一文があった。
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僕は昔から、指導的理論家なんてものを信じてこなかった。自分でもそんなものを持ったことはない。今は、いよいよそういうふうに思うようになった。そしてこの頃は、黙っている人をだんだん尊敬するようになってきた。黙っている人は、しゃべる人よりも百倍も千倍も利口じゃないかと考えるようになった。
もう一つ、世に知られていない人にどんな偉い人がいるかということも、この頃考えるようになってきた。若い頃は真理を知っている人、真理を考えた人は、きっと世の中のために役立つし、崇められもすると、簡単に考えるものです。だが、平凡で、世に知られていなくて、しかし真理をつかんでいる人もあるだろうと考えるようになったな。僕は、自分では宗派的な宗教を持っていないけれど、少しずつそんなふうに自分で考え始めたな。
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小林秀雄先生、偉すぎて(と言う評判で)なんとなく敬遠していたのだが、急になんとなく親しみが湧いてきた。
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そして、なんでもブログのランキングというものがあるそうで、以下をクリックするとブログの作者は喜ぶらしい。
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