岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

長崎原爆の日に書きました。

2020-08-09 14:29:32 | 戦争を語り継ぐ

長崎原爆の日に

8月9日午前11時2分に長崎市に原爆が投下されました
テニアン島を離陸したBー29機は6機でした。気象観測機と爆撃機です。
75年前の8時間前に離陸した爆撃機の
第一目標は小倉でした。
第2目標が長崎でした。
日本軍は広島に続いて再度の原爆投下が予想されたため、小倉にある八幡製鉄所のコールタールを焚いて煙幕を張っていました。
そのため爆撃機から目視による投下目標が確認出来ませんでした。
3回旋回後、あきらめて第2目標の長崎に向かいました。

10時50分、長崎に近づくと市街は雲に覆われていました。
一瞬、雲間から長崎市街が見えました。
長崎にとっては不幸なことでした。
10時58分に「ファットマン」を投下、4分後に大爆発しました。
市街中心部から3km北に逸れました。
そのため、山に隔てられ被害は広島より軽減されました。
しかしプルトニウム型原爆の威力は広島型の1.5倍と言われます。
中心地に落とされたならより多くの被害を発生させていたでしょう。
原爆の投下により、当時の人口24万人推定のうち約7万4000人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊しました。
この爆撃機は燃料を浪費してしまい、テニアン島に向かうことは出来ず、沖縄を目指します。
沖縄戦で破壊尽くした沖縄にはすでに短期間で米軍の滑走路が造られていたのです。原爆投下の候補地には新潟も上げられていました。

新潟市は原爆疎開をしています。日本で唯一です。
新潟県では長岡市には大きな空襲がありました。大林監督が映画を作りました。
しかし新潟市は大きな空襲を受けていません。
原爆投下を予測した知事は強制疎開することを決しました。8月13日までに街から人影が消えたと言われます。
もし8月15日に日本が降伏していなければ新潟も可能性がありました。

現在、被爆者の平均年齢は83歳です。
岡山県では今も1200人の方が被爆者健康手帳をお持ちです。
この7月に被曝訴訟の判決が広島地裁でありました。原告側が勝訴しました。
75年経ってやっと被爆者として認められました。
国が控訴しないことを願います。
原爆被害は今も続いているのです。

岡山県では水島と岡山市が空襲に遭いました。
このグラウンドの周辺にも焼夷弾や爆弾が落とされました。
奉還町も清心町も焼けてしまいました。
1945年6月29日の事です。

当時、この場所は練兵場でした。兵隊を訓練するところです。
兵舎は岡山大学にありました。
陸軍の連隊が駐屯していましたが、
空襲当時はすでに中国や南方に行っており兵士はいない状態でした。

この練兵場の様子を岡山の詩人 永瀬清子さんが書いていました。
夫が2度目の出征をするときの様子です。
紹介させていただきます。

「ものすざましいプラットホームの人並みや子供を連れての後追い旅行、
真っ白なほこりを浴びた練兵場の草いきれ、そこに一面に小屋掛して召集された馬の群れが馬糞の匂い激しく発散させながらたむろしている。
それも一時の事で1週間のあとにはその馬の群れも立ち去ってしまった。
その後はなおなお白く眩しい夏の日の草原である。
また、焼けつく様な営庭(練兵場)に兵士たちは、はらばって小銃の練習をしている。
私どもはいわば「日毎夜まいの死に覚悟」という気持ちで、もうこれが最後の別れかといつも思いながら
その兵営(へいえい)の片隅の藤棚の陰にタバコやシャツを持って面会に行った。
岡山駅まで行進する隊列を身内や知人らが日の丸の小旗を降って見送った。
兵士たちは特別列車で岡山駅から中国へ向かった。」

引用終わります。

多くの兵士は山陽本線を西に移送され広島や下関へ、また宇野港から船で中国大陸へ、さらに南方に転戦し、再びこの地に帰ることはありませんでした。

日本の民間人の被害が増えるのは昭和20年に入ってからです。東京を始め大都市の大空襲、沖縄の惨劇、広島長崎被曝と尊い生命が失われました。
もちろん、日本以外の国々も多くの方の命が失われました。
75年経っても忘れてはならないことです。

 

お読みいただきありがとうございました。

 



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