岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「小島の春」の序を読んで。(その2):資料

2008-09-29 21:13:24 | ハンセン病
序を書いた3人(上村、高野、光田)は、この序を書いた昭和10年以降も「ハンセン病」に
ついての重要な役割を担っていく。


以下の文章は、上村、高野両氏のハンセン病への重要な関わりを示唆している。
資料として掲載いたします。


「厚生労働省所蔵の「昭和二十八年三月十五日起 らい予防法案関係一件綴」のなかに
厚生省の罫紙2 枚に記されたメモが収められている。
内容から厚生省が「癩予防法」の改正法案を作成していた1953(昭和28)年2 月頃に、
厚生省が藤楓協会に改正法案を示し、意見を聴取した際のメモと推定される。

意見を求められているのは、西野、勝俣、高野、濱野、下村の4 名で、勝俣は勝俣稔、
高野は高野六郎、濱野は濱野規矩雄で歴代の厚生省予防局長、下村は下村宏(海南)と推測できる。
下村は藤楓協会会長、高野は同理事長、濱野は常務理事である。こうしたことから、
このメモは厚生省が藤楓協会幹部に改正法案についての意見を聴取した際のものと推定できる。

そこで、患者の収容について、濱野は「気持は完全収容」、高野も「完全収容のつもりでやれ」と
述べ、患者への懲戒については、高野は「駐在所の駐在にすればよい」、濱野は
「職員の一名位を警察官にする」と述べている。
断片的なメモではあるが、これらの記述にもとづけば、高野、濱野は強制収容と懲戒検束規定を
肯定していると判断できる。」

※「検証会議」報告書より


高野 六郎
たかの ろくろう1884年~ 1960年 (和暦:明治17年~ 昭和35 年)
予防衛生の先駆者 

1926(大正15)年、東京帝国大学医科を卒業し、慶應義塾大学医科教授を務めた
内務省衛生局予防課長高野六郎は、将来のハンセン病予防策として、公立療養所の拡大、
国立療養所の開設、患者が自由意思で療養する「癩村」の設置をあげ、絶対隔離を「癩予防上の根本」と
する意見を発表した。

これは、保健衛生調査会の決議と軌を一にするものであるが、高野はハンセン病予防の課題を
「民族の血を浄化する」ことに求めていることに注目したい(高野六郎「民族浄化のために
―癩予防策の将来―」、『社会事業』10 巻3 号、1926 年6 月)。
「民族の血を浄化する」という発想には優生思想に通じるものを認めるからである。

この高野の意見を受けて書かれた光田健輔の論稿にも、日本のハンセン病患者が多いことを憂いて、
「血統の純潔を以て誇りとする日本国が、却つて他の欧米諸国より世界第一等の癩病国であることがわかる」と
書かれている(光田健輔「癩予防撲滅の話」、『社会事業』10 巻4 号、1926 年7 月)。
さらに、日本MTL理事長小林正金は、ハンセン病対策の目的を「汚れたる民族を浄化する」と
(小林正金「癩病同情の先駆者」、『社会事業』10 巻7 号、1926 年10 月)、鈴蘭園の看護婦三上千代も、
「癩絶滅」を「我民族の浄化」と表現している(三上千代「癩の根絶」、『社会事業』11 巻10 号、1928 年1 月)。

※「検証会議」報告書より


下村海南(しもむら かいなん)
 1875.5.11~1957.12.9。和歌山県出身。
 本名下村宏。1898年東大政治学科卒業、逓信省入省。貯金局長を経て
1915年台湾総督府民政長官。早大、中大、東京商業大学で財政学の講師となる。
19年学位を得る。21年朝日新聞社に招かれ辞官して入社。欧米巡遊。22年専務。
社内の組織化、営業網整備を進め、全国紙企業に拡大する。30年副社長。中央放送審議会委員。
36年退職。37年貴族院勅選議員。43年日本放送協会会長。45年鈴木内閣で国務相兼情報局総裁。
ポツダム宣言受諾、終戦の玉音放送実現に動く。その後政府委員、社会福祉団体役員などを経て
53年参議院選挙に立候補するが落選。財政関係の本や終戦関係の本を執筆したほか、
佐々木信綱門下の歌人として歌集も発表している。(ネット検索:netlaputa)


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