内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(十一)

2014-03-31 00:00:00 | 哲学

3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異(承前)
 以上から、哲学と科学との立場の違いを、自覚と行為的直観とにおける私たちの自己の世界との関係の差異として、次のように規定することができる。科学は、行為的直観による私たちの自己と世界との相互的な関係であるのに対して、哲学は、世界の自覚によって、つまり世界の自己の自己に対する関係の直接把握によって始まる。科学は、行為的直観によって原初的に与えられた私たちの自己の世界に対する関係を対象化することによって表現するのに対して、哲学は、世界の自覚を表現する私たちの自己によって自らに開示された世界自身の自己表現である。
 西田が哲学的知識と科学的知識との区別あるいは両者の方法論上の区別を規定しようとするとき、自覚と行為的直観との差異はより厳密な仕方で提示されるが、それは「ポイエーシス的自己」と「創造的自己」との区別に基づいた立論の中で為されている。

科学的知識は我々のポイエーシス的自己の行為的直観に基づいて成立するのであるが、ポイエーシス的自己の自覚の根柢には、創造的自己の自覚がなければならない。創造的世界の個物として、我々の自己はポイエーシス的であるのである。何処までも自己自身を限定する絶対的事実としての、我々の創造的自己の自覚に基づいて哲学的知識が成立する。

 科学的知識は、私たちのポイエーシス的自己がその焦点あるいは起点である行為的直観の現実性に基づいて成立する。行為的直観が私たちに与える原初的な確実性の経験が科学的知識の起源にある。しかし、行為的直観は、世界をただあるがままに見ることではなく、自己形成的世界の直接把握として、相互に自己限定的で表現的な諸々の形の只中で現実化されており、それらの形に働きかけ、それらに変更あるいは変容をもたらすことを私たちの自己に可能にし、世界に別の配置あるいは構成形態を与えることを可能にする。行為的直観は、私たちの自己それぞれを世界の創造的行為の焦点あるいは起点にしうるのである。この世界の創造的行為は、世界の創造性をある時ある所で実現・具体化する。しかしながら、行為的直観は、世界の諸構成形態の認識の根柢においてつねに作動しているとはいえ、それ自体は世界の創造性そのものの直接的認識ではない。行為的直観は、その起源へと自らを向け返るとき、世界の創造性の原初的根源的認識へと私たちを導く。この方向において、私たちのポイエーシス的自己は、自らをそのようなものを把握することを介して、創造的自己の自覚へと自らを深化させていくが、この深化の過程が「否定的自覚」と西田によって呼ばれる思考過程である。この過程を自ら歩むことそのことが、方途という意味での哲学の方法にほかならない。
 ここで、もう一度、西田における哲学的方法とその他の諸科学の方法との区別をまとめておこう。諸学の構成の順序に従うとき、哲学的方法が他のすべての科学的方法に先立つ。前者は直接的に創造的自己に基づいているのに対して、後者はポイエーシス的自己のよって実行されるからである。このポイエーシス的自己は創造的自己に基づいている。哲学的方法は厳密な意味での自覚によって実行されるのに対して、諸科学の方法は行為的直観に基づいている。事実の順序に従うとき、反対に、行為的直観から出発して私たちの自己はポイエーシス的自己としてまず自覚し、そしてこのポイエーシス的自己が自らの起源に遡ることを通じて私たちの歴史的身体において創造的自己として自覚するに至る。そこにおいて、自覚は、世界の自覚を表現している。


3.3 創造的自己とポイエーシス的自己との関係
 本章の締めくくりとして、創造的自己とポイエーシス的自己との関係をまとめておこう。創造的自己は、世界の始まりから始まり、たえず始まる〈始源〉である。ポイエーシス的自己は、それに対して、世界の現実的な構成形態の只中にあって具体化された一つの始まり、一つの起動点である。世界が無限の多様性の相の下に自己限定するとき、ポイエーシス的自己は、世界において行為的直観によって時間空間的に限定された一知覚的中心として経験される。世界が永遠の唯一性の相の下に経験される時、創造的自己は、世界の只中でそれとして自覚される。私たちの行為的身体において具体化されたポイエーシス的自己は創造的自己ではない。前者は後者をある限定された形で表現する。無限の創造的自己が、私たちの有限の自己において、歴史的生命の世界の絶対的自己否定を介して自らを表現する。創造的自己は、世界のノエシス的自己限定として自らに自らを現れさせる。それに対して、ポイエーシス的自己は、世界のノエマ的自己限定の中で、自らの周りに構成させる世界との関係において自らにそれとして現れる。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(十)

2014-03-30 00:00:10 | 哲学

3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異
 行為的直観と自覚とは、「矛盾的自己同一の世界に於て一つの事である」が、両者それぞれの経験を可能にする関係性の違いによって相互に区別されうる。行為的直観は、私たちの自己の世界に対する原初的関係を示すのに対して、自覚は、世界の自己自身に対する根本的関係を示す。

私の行為的直観と云うのは、我々の自己が、世界を映すことによって働き、働くことによって映すと云うことに外ならない。矛盾的自己同一的世界に於ての自己と世界との関係である。自覚と云うのは、矛盾的自己同一的世界が自己の内に自己を映すと云うことである。世界が世界自身に対する関係である。

 私たちの自己が世界を映すということは単に世界が私たちの自己に対して対象として現れるということだけではなく、逆に私たちの自己が世界の内部における行動する一つの観点であることを意味している。行為的直観は、世界が世界自身を自らその内部そのものにおいて私たちの自己に対して現れさせるという原事実にほかならない。私たちの自己は、そこにおいて世界を構成する諸々の形の受容者でありかつ贈与者あるいは創造者である。無数の個物である私たちの自己が世界を映す、言い換えれば、ライプニッツ的な意味で「表現する」とき、世界は自己形成的世界として自らに現れるのである。
 それと同時に、行為的直観の事実が私たちの自己に世界を直接的に経験することを可能にしているまさにそのことゆえに、その世界に内属する私たちの自己の世界に対する関係とは区別されるべきもう一つの原関係があることが私たちの自己において直接感得されうる。それは、その世界に内属する私たちの自己おいて世界の世界自身に対する関係がそれとして直接把握されるときである。

我々の自己の自覚と云うのは、自己が何処までも世界を映す、自己が全世界を表現する、自己が世界となるという立場に於て成立するのである。

 西田はここで、自らの内部に自己自身を映す世界として私たちの自己がそれ自身によって把握される経験の構造に表現を与えようとしている。西田は、私たちの自己においてその自己によって内的に経験されるこの二つの関係性の区別、つまり私たちの自己の世界に対する関係と世界の世界自身に対する関係との区別に基づいて、科学の基礎としての行為的直観と哲学の営為そのものである自覚とを区別しつつ、この両者それぞれに固有の規定を与えようとする。

科学と云うのは、[…] 我々が現実に、歴史的身体的に、即ち行為的直観的に、自己自身を形成する形を見ると云うに基づく。

 世界を構成する諸々の形は、私たちの歴史的身体において現実化される行為的直観によって、そのような諸々の形として私たちに現れる。私たちの自己は、一つの種としてまた身体的に限定された存在として世界に属しつつ、世界に対する個物として、この種的に限定された次元を超えていくことができる。行為的直観は、この内在と超越の間の弁証法的関係が私たちの行為的身体的自己において生きられているときの現実形態にほかならない。私たちの自己は、世界を一なるものとして〈映し〉つつ、その内部において世界に対立し、世界をある一定の〈形〉において表象し表現することができる。ここに科学の立場が成立するための可能性の条件がある。このような視野に立つとき、科学的認識は、自己形成的な世界をその内部におけるある点から対象として見て、それをある一定の形の記号的体系において概念的に表現することにほかならないと言うことができる。

哲学と云うのは、之に反し世界が自己の内に自己を映すという立場に於て成立するのである。世界自身の自覚である。[…] 世界が自己の内に自己を記号的表現面的に、即ち概念的に表現する。哲学とは、かかる世界の概念的自覚ということができる。

 この定義によれば、哲学とは、私たちの個別的自己の個人的自覚ではなく、私たちの有限の自己において経験され、その自己によって概念を通じて表現された、世界そのものの自覚なのである。この自覚において、世界は、対象として自己に対して現れるのではなく、自己の自己による自己における直接的な経験として内的に生きられる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(九)

2014-03-29 00:00:00 | 哲学

3 — 自覚と行為的直観との区別と関係

 西田の哲学的方法論をそれとして取り出す作業の第三段階として、西田哲学の最後期における自覚と行為的直観との区別と関係を検討していこう。その作業を通じて、私たちは、なぜ、どのように、自覚が哲学の方法として科学の諸方法の起動点としての行為的直観から区別されるのか、あたうかぎり厳密に理解することに努める。

3.1 歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚
 西田において、真実在とは、私たちがそこにおいて生き、それを現実に生きている世界にほかならない。それを、西田は、「歴史的世界」「歴史的現実の世界」「歴史的生命の世界」などと呼び、「すべてがそこからそこへ」と言う。

歴史的世界と云うのは、我々の自己がそれに含まれた世界であり、我々がそこから生れ、そこに於て働き、そこへ死に行く世界である。我々の自己に絶対的な世界である。

 自覚は、歴史的世界が自らの内部で自己限定し、自己形成し、自己表現するということに由来する。自覚は、根本的に世界に属することがらであり、世界が自らに与えるものである。しかし、これらすべてのことが十全な仕方で現実化するのは、私たちの個別的な自己のそれぞれにおいてであり、その個別的自己の自覚は、「かかる世界の自己自身を限定する唯一的事実として成立するのである」。

世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である。我々の知識は、世界が自己の内に自己を映すことから始まる。

 世界の自覚は、それが私たちの自己において経験されることによって、私たちに世界を直接経験することを、つまり世界の直観を可能にする。この直観は、

すべての点が世界の始となる、時間的・空間的、空間的・時間的世界の自己限定として、見るものと見られるものとの矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する、形が形自身を見ると云うことである。

 この直観は、まさに西田が行為的直観と呼ぶものであり、歴史的身体としての私たちの行為的身体によって現実化されるものである。自覚は、行為的直観がそれを歴史的実在の世界における私たちの行為的身体に直接把握可能なものにするかぎりにおいて、行為的直観に同一化される。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(八)

2014-03-28 00:00:00 | 哲学

2.3 人間存在の自己形成作用としての行為的直観

 西田における厳密な意味での行為的直観、つまり高次の行為的直観は、歴史的実在の世界あるいは歴史的生命の世界の中で人間存在によって現実化される。行為的直観は、歴史的世界において形が形自身を自ら限定するということからなる。それは、この世界の「歴史的身体」によって、この世界において、現実化される。それゆえ、もはやそこでは主体と環境との相互限定的な関係、つまり、本質的に連続性、反復性、画一性によって特徴づけられる二項関係が問題なのではない。人間存在による行為的直観は、世界が自らの内部そのもので、諸々の形のある構成形態を自らに与えることからなる。この動的で創造的な構成形態の知覚的中心が私たちの行為する身体にほかならない。この身体は、また、「歴史的身体」とも呼ばれる。「形が形自身を限定することが、行為的直観と云うことである。」つまり、世界が私たち行為する身体によって自己自身を限定し、自己自身を形作り、その行為する身体も含めたすべての自己構成要素に〈形〉を与えることが行為的直観にほかならない。
 人間存在による行為的直観は、世界の諸事物の配置あるいはその構成形態の創造の起源に、世界の世界自身についての新しい認識ならびに世界の新しい自己形成作用の産出の起源にある。世界のこれらの諸配置あるいは構成形態は、私たち歴史的身体を構成員とする共同体によってそれと認知され、共有され、保存されうるが、と同時に、それらは、一つの歴史的身体によって否定され、破棄され、変容させられることもありうる。自己形成的な歴史的実在の世界における行為的直観の起動点として、人間存在は、これらの諸配置あるいは構成形態との関係において、それらの只中にあって、自らをある一定の形に自己限定する。この意味での行為的直観によってこそ、世界は自らを理解し、自らを表現し、その内部そのものにおいて自らに〈形〉を、つまり諸々の形の構成形態を与える。
 西田において、生物の世界とはただ「作られたもの」からなる世界であり、ある限定された諸形態の無際限の繰り返しにとどまり、そこには創造性が見出されない世界である。それに対して、人間存在がそれとして生きる歴史的現実の世界は、生物の世界とは異なって、「作られたものから作るものへ」と展開する。私たちの行為する身体は、作られたものであると同時に作るものであるから、まさに私たちの身体においてこの作られたものから作るものへの転回、反復から創造への転回がこの世界の只中に到来するのである。歴史的生命の世界では、作られたものは作るものを産出するために作られている。いわば、被造物は、創造者が被造物の只中に生れるように作られているのである。この意味において、被造物の創造性ということも問題にすることができるであろう。
 「行為的直観とはポイエーシス的自己の過程である。」この定義が示しているのは、ポイエーシス的自己は、歴史的身体として、歴史的現実の世界の只中で行為的直観を実行するということである。一つの歴史的身体として具体化されている私たちの行為的自己は、世界の自己形成の起動点として、自らを取り巻く諸々の形との関係において限定されたある形に自らを限定しながら、世界の構成形態を創造する。それゆえ、この世界における行為的直観に先立つ独立で自律的な自己の存在は排除される。私たちのポイエーシス的自己は、私たちの歴史的身体が〈いま〉〈ここ〉において歴史的現実の世界の中でそれぞれ個別的な仕方で自己限定するという意味において、かけがえのない事実である。私たちの歴史的身体それぞれのかけがえのなさが私たちのポイエーシス的自己の創造性の起源にある。しかしながら、ポイエーシス的自己は時間空間の中で限定された身体的自己においてのみ具体化されるまさにそのことゆえに、私たちの自己における作られたものから作るものへの展開は必然的ではなく、しばしば危険に晒される。私たちの自己の脆弱さは、私たちの歴史的身体が出会うこの不確実性あるいは困難に由来する。













生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(七)

2014-03-27 00:00:00 | 哲学

2.2 行為的直観の原基的次元

 行為的直観には、区別されるべき二つの次元がある。まず、すべての種的な行動、つまり、ある種に固有の諸行動は、原基的次元にある行為的直観と見なされる。この意味での行為的直観には、諸動物たちの種的行動もすべて含まれる。それに対して、高次の行為的直観は、人間においてのみ現実化される。
 ある種に固有の行動がその種に固有の環境の中で生ずるとき、この行動は、その主体が見出される環境そのものの中に、諸事物の形態 ― 西田が「形」と呼ぶもの ― のある配置を描き出す。このことが意味するのは、世界のある構成形態は、この行動そのものによって直接に現実化されているのであり、この行動が、それが実行される環境にとっても、その行動の主体にとっても、現実的な、諸々の形のある配置を現出させているということである。生きた身体がそれ固有の環境においてある一定の仕方で行動するということは、その行動の主体によって環境がその環境として限定されるということと同時に、その主体もその主体として自らがそこにおいて行動する環境によって限定されているということを意味している。そこにおいて、環境を構成する諸事物の認知が身体的行為よって直接的に形として表現されているとき、行為的直観が実行されていると言うことができるし、その逆も言うことができる。このいわば動物的次元においては、主体と環境との関係の変化の可能性を認めることは、両者によって保たれている事物の諸形態の配置が変化を蒙ることがありうるかぎりにおいて正当と見なせるが、創造の契機をそこに導入することはできない。なぜなら、この次元では、主体はその環境にも自己自身にも、所与に対して新しい構成形態を自ら作り出すことはできないからである。この次元での行為的直観において現実化されているのは、主体と環境との形態的相互限定である。この意味において、西田は、「主体が環境を形成すると云うことは、逆に主体が否定せられることでなければならない」と言っているのである。
 この主体の否定についてのテーゼを上述した文脈の中で理解することができれば、「行為的直観的に物を見ると云うことは物が否定せられるべく見られることである。主体は自己自身を否定するべく形成するのである」と西田が書くとき、「否定する」という動詞にどのような意味が込められているのかがわかる。物が見られるとき、その物は、ある特定の限定された形において見られるという意味において、「否定」されている。しかし、これは、見る主体によって一方的に実行され、見られた物はただそれを受容するしかないような否定作用ではない。まったく反対に、ある物がある形において見られるというまさにそのことによって、主体は、ある限定された仕方でこの物を見ているという点において、その物から否定されているのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(六)

2014-03-26 00:00:00 | 哲学

 まず、行為的直観を主題としているか、それについてのまとまった言及が見られるいくつかのテクストから引き出しうるその基本的規定を、次の五点にまとめて提示することから始めよう。
 (一)「行為的直観の世界は、無限の世界である。行為的直観とは無限の過程でなければならない。」行為的直観は、私たちの行為する身体においてたえず始まりつづける、つねに始まりとして働きつづける始まりである。それは、私たちの世界において、そこに諸事物をそれとして現出させる世界の自己否定作用として、つねに現実的に作用している。本質的内在化作用として、行為的直観は、その能動性と受動性の両契機によって、私たち行為する身体にとっての諸事物の無関係な外在性を否定し、諸事物をそれら自身の十全な形において自らに現れさせる。行為的直観は、世界に帰属する私たちの行為する身体によって担われているゆえに、世界の只中にあって世界自身の自己否定作用として現実化されるが、それゆえにこそ、世界において諸事物がまさにあるがままの諸事物として現れる。この行為的直観が、「現実が、自己自身の中から自己自身を超え自己自身を構成し行く、自己構成の過程」をもたらすのである。
 (二)行為的直観は、主体にも対象にも従属しない。むしろ、行為的直観によって開かれる世界において、主体と対象とがそれとして分節化される。行為的直観によって直接把握された諸事物は、世界のうちに行為的直観の形そのものを描き出す。諸事物は、行為的直観がそこにおいて現実化される構成形態を表現している。行為的直観の領野においては、いかに外的現実が視覚に対して現れるのかという問いは適切な問いではない。なぜなら、行為的直観の領野においては、何らかの主体との関係における外部と内部との区別を前提として導入することはできないからである。この区別は、行為的直観においてもたらされる原初的経験についての反省的抽象化の手続きによってのみ獲得されるものなのである。
 (三)行為的直観は、その根本において世界の原初的出来事である。行為的直観がまさにそれとして現実に行われるその初源の次元においては、つまり、それに対して事後的なすべての認識が定義上排除されるその最初の契機においては、ただ世界の一つの経験があるだけである。世界のあらゆる認識の起源にある行為的直観は、意識に対して与えられるのでもなく、意識の権能の支配下におかれているのでもなく、それ自身からしか、その固有の本質からしか説明されえないものである。発生的順序にしたがって言えば、行為的直観が世界の統一契機としての時間性とその差異化の契機としての空間性を発生させるということから、意識の生成が説明されるのである。
 (四)行為的直観は、知覚世界に帰属しない。まったく逆に、知覚が行為的直観の世界の一部をなす。行為的直観は、歴史的世界の原初的経験であり、それが世界の認識と自己の認識を可能にする。この経験は、世界がその内部そのものに自己を否定する要素を生むということからなっている。この世界の自己否定が行為的直観として現実に行われ、その起動点は私たちの行為する身体にある。世界における世界自身の出来事として、行為的直観は、「世界の自己否定の肯定として現れ来るものたるに過ぎない」。
 (五)行為的直観は、「極めて現実的な知識の立場を云うのである。すべての経験的知識の基となるものを云うのである。」しかしながら、「行為的直観そのままが知識だと云うのではない。」行為的直観は、あらゆる認識のいわゆる出発点でもなければ、その直接の基礎なのでもない。つまり、行為的直観は、現在の認識が展開されるにしたがって、その現在の到達点から離れてしまうような過去に与えられた出発点ではない。認識の展開を通じて、行為的直観は、つねに世界の直接把握として働いているのである。それは、何らかの理論がそこから構成される認識の基礎でもない。最初の自明性の直接経験として、行為的直観は、そこから推論が推し進められるような仮説的命題を自らに与える作用にけっして還元されるものではない。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(五)

2014-03-25 00:00:00 | 哲学

1.4 自己自身を対象化することによって働くもの

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。

 この第三のテーゼは、第二のテーゼから導かれる。後者が示しているのは、真実在は、自らがそれによって形成される質料をいかなる仕方でも前提としないということである。真実在にとっての所与というものは存在しない。真実在は、全的に自らに自らを与え、自らを自らに与える。真実在は、自ら自らのために全的に自己否定する。探求されるべきなのは、自らを対象として自らに対して表象するものではなく、対象化しえないもの、つまり対象化を本質的に逃れるものである。いわば対象なき知がここで問題なのである。しかし、このことは、西田の哲学的方法が対象化されたあるいは対象化されうるものの彼方あるいは手前に隠蔽されているものを、さらには隠れながら現れるものあるいは現れながら隠れるものを探求することを目的としているということを意味しているのではない。西田の方法は、その十全なる内在において全的に自己対象化するもの、つまり自己から自己へと移り行く永遠の現在において、〈いま〉〈ここ〉において、ある形を自らに与えるものへと到達することを求めているのである。


1.5 自己表現的に働くもの

 第四のテーゼは、「自己対象化は自己表現にほかならない」と定式化することができる。自己表現においては、表現するものと表現されるものとの間にいかなる分裂もない。そこには両者の全体的な同一性がある。いかなる距離もない、いっさいの媒介的な表象をその本性からして排除するこの同一性においては、表現は何も隠すことなく、理解されるためにいかなる解釈も要求せず、そのようなものとして絶えず自らを示し、表現そのものの背後で自らのうちにとどまりながら自らを表現するものをいかなる仕方でも前提しない。全的に自己表現するものにおいては、ただ一つのことがあるだけであり、それは、諸々の形がそれぞれまさにそのような形として自ら自らを限定しているということである。自己とは、自己の表現にほかならない。世界とは世界の表現にほかならない。


1.6 自らを知って働くもの

 自己表現は、距離なく基底も裏もなしに自らに自らを示すということに、つまりその全的な内在において自己自身に対して自ら現れるということにある。この自己表現が自己知にほかならないとするのが第五のテーゼである。つまり、自己の自己による自己のための表現は自己の知にほかならないということである。自己自身のために自己表現するものは、自己をいかなる媒介もなしに知り、与えられたものに対して距離を取ることを前提とする解釈には、それがどんなものであれ、余地を与えることがない。多かれ少なかれ限定的なあらゆる概念的同一化を本質的に逃れるものの直接的自己知がここで問題なのである。その探求のためには、ある結論に到達するために時間の中で展開され、直接的に自ら感得される現在から必然的に遠ざかってしまうあらゆる推論過程を排除しなければならない。直接的に自ら感得され、直観によって自ら捉えられ、自らに自らの知の形を与えるものを探究しなければならない。直接的に自らを知るものは、知の対象がその前に提示される思考の主体の独立へと導かれることはけっしてない。いかなる媒介的概念もなしに、無限の自己否定によって自らを感得するたびごとに、自己は直ちに直接的に自らを知るのである。

 西田の哲学的方法は、根本的かつ無限の自己否定作用をその基本原理としており、この自己否定には起点も終点もない。より正確に言えば、この方法は、真実在をまさに真実在としているもの、つまり絶対矛盾的自己同一の現実そのものが自らに自らを示す無限の過程からなっている。西田は、主体と対象、実体と現象、内在と超越などの諸概念を定義上対立させる伝統的な哲学用語体系を前提としつつ、そこに独自の術語および表現法を織り交ぜることによって、真実在の定義を試みているが、その同じ原則を西田の哲学的方法の定式化に適用するとき、私たちが上に見てきたような諸規定が真実在の定義から引き出されうるのである。その作業を通じて私たちが導かれる結論は、根本的に否定作用として規定されるこの哲学的方法は、私たちをいきなり無限の過程の只中へと心身丸ごと投げ込み、それによって私たちに哲学の〈始源〉への途を打ち開く思索の挙措にほかならないということである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(四)

2014-03-24 00:00:00 | 哲学

1.2 自己自身に於て他を含むもの、自己否定を含むもの

 上に見たように真実在の一般的定義から引き出されうる西田哲学の方法上の基本原則から、さらにどのような方法論上の諸規定が引き出されうるか、先に引用した一節に含まれている真実在についての五つのテーゼの分析を通じて見ていこう。

しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。

 この内在する他者についてのテーゼから言えることは、真実在の根源的な知においては、原理的に他者性を排除するような、単なる神秘的な合一体験が問題なのではないということである。このような合一は、それが個と全体との融合と定義されるかぎり、西田の言い方に従えば、ただ主観的なものにとどまる。しかも、このような見方においては、個は全体に完全に没入し、したがって他なるものと出会う可能性はまったくないことになってしまう。しかしながら、考える自己による他なるものの思弁的回収あるいは導入ということがここで問題なのでもない。その場合は、考える自己によって他と見なされたものが現れるにすぎないからである。
 それ自身によって存在するものは他なるものをそれとして本質的に自らのうちに含んでいなければならない。もしそれが常に単に実体的に自己同一的で、自己の内部から他を排除することによってしかそれ自身によって存在することができないとすれば、十全にかつ全体としてそれ自身によって存在することは不可能になってしまう。その場合、その存在は、他の不在あるいは他の無化を前提としているという点において、他に現実に依存していることになる。したがって、真実在がまさに真実在であるためには、他なるものが真実在に十全にかつ全体として迎え入れられ、そこに含まれていなければならない。
 では、どのように真実在は自らのうちに他を含んでいるのであろうか。言うまでもなく、自己と他とが相互に無関心なまま、無関係に並存しているような在り方ではない。先に引用した第一のテーゼが、現実を何らかの形で分割する二元的思考、それが二つの相互に還元しがたい二原理を立てるにせよ、異なった二要素の独立を措定するにせよ、そのような思考へと導くものではないことも明らかである。自己自身のうちに他を含んでいるものは、自らのうちに自己自身に根本的に対立するものを、その対立をいっさい相対化することなしに含んでいなければならない。しかし、それは葛藤に満ちた対立でも乗り越え不可能な二律背反でもない。ここで西田は、自己自身のうちに他を含むものは自己否定を自らのうちに含んでいると言うことによって、真実在の根源的な知に迫るための新たな契機として自己否定を導入する。この契機の導入によって西田が主張しようとしているのは、それ自身によって存在するものは、一なるままで、自らの内部において無限に自己を分割し、自己を差異化するものでなければならないということである。この意味で、真実在とは絶対矛盾的自己同一の現実そのものにほかならない。


1.3 自己自身の中に絶対の自己否定を包むもの

自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。

 この第二のテーゼは、西田が「絶対矛盾的自己同一」によって何を指し示そうとしているのかをより正確な仕方で理解することを可能にしてくれる。このテーゼは、真実在を自己同一的で自己に対する否定をいっさい排除する実体として考えることを私たちに禁じている。真実在は自己の自己による自己のための否定を含んでいる。したがって真実在は、自己同一的な実体として自己措定する考える自己によってその対象として知られるものでもなく、その考える自己自身として知られるものでもない。一度知の主体を実体化し、それをその対象と対立させてしまうと、〈自ら働くもの〉は致命的に歪められ、主客の構図の中に閉じ込められてしまう。ところが、真実在は、本質的に直接知によって捉えられなければならないものである。それゆえいっさいの実体的同一化を逃れるものを捉えなければならない。
 自己否定は、本質的にその自己否定の作用そのもの以外の何ものにも導かない作用である。絶対的自己否定は各瞬間において自己否定を全的に行うことであり、したがってその作用の外に何らか自己同一的な実体あるいはその残滓が取り残されるということはいっさいありえない。絶対的自己否定は、それとして実現されるために自らの外に目指すべきいかなる目的もない。それゆえ、既存の異なった二項の同一化を図るいっさいの過程的同一化作用を排除しつつ、自己否定の作用をまさにそれとして、いま、ここで、それ自らのうちで直接に捉えないかぎり、真実在の根源的な知は自らにおいて感得されえない。絶対的自己否定は、その各瞬間が自己否定作用として同一の十全の価値をもつ無限の自己差異化の過程として、全的な仕方でしか展開されえない。それゆえ、無限に自己否定し続けることそのことによって自らを現実化するもの、すなわち、実定的かつ構成的な過程を前提とし、その過程を経てようやく最終的な実現に至るような概念的同一化をいっさい逃れるものを探求しなければならない。上述のような根本的な自己否定によってのみ、そのような直接性が十全に自ら感得されうるのである。



















生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(三)

2014-03-23 00:00:00 | 哲学

1.1 それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの(承前)

 それ自身において有るものの内部では、自己知のためには、当然のことだが、知るものと知れられるものとの分裂は排除されなくてはならない。分裂があれば、捉えられるべきものは不可避的に探求するものの手を逃れてしまうからである。知るという作用とその対象とは、それゆえ、一つでなければならない。哲学的方法の探究の対象は、自らを感得するもの、「対象なき対象」、つまり、対象に対立し自らの独立と自律を要求するものによってはけっして対象化されえないものである。知る主体と知られる対象との二元的区別を前提するすべての思考方法は、それゆえ、探求の始まりにおいて排除されなくてはならない。ここで要求されているのは、距離なき、基底なき、自己に対する表象なき自知・自得である。つまり、自らに自ら固有の現実を与えるものが、隔たりなき内在的な自己贈与を経験することである。それゆえ、およそ因果律に従った推論によって知られるものはすべて排除されなくてはならない。もはや言うまでもないが、およそ機械論あるいは目的論に属する立論はすべて、真実在を求める哲学知とは本質的に異なったものである。この段階において、西田は、哲学的方法と、客観的な知の体系の構成へと向かうその他のすべての学問的方法とを本質的に区別するものをそれとして考察していることがわかる。哲学的方法は、真実在の根源的な知から不可避的に遠ざかってしまういかなる種類の表象によっても本質的に捉えられないものを探求する。この方法によって、西田は彼なりの仕方で「表象の形而上学の支配」(ミッシェル・アンリ)の批判を、より正確に言えば、二十世紀の初めに、「フッサールが徐々に設置した表象主義的客観主義と自我論的主観主義との問い直し」と「客観化する理性の帝国主義」(ルドルフ・ベルネ)への批判を敢行しているのである。
 この根源的な知は、それゆえ、〈いま〉〈ここ〉において探求されなくてはならない。それは、どこか他所に、あるいは現に現れているものの背後に、あるいは今感じられていることの彼方に覆い隠されているようなものではなく、いっさいの表象の媒介なしにそれが現実にあるところで自らに感得されるものなのである。それは、知の始まりにおいて獲得されながら後に忘却されてしまったものを回復することでもなく、それをこれから迎え入れる者たちに対して顕にされるはずのものを待機することでもない。忘れられる可能性があり、後に取り戻されうるものも、その開示を待たなければならないものも、哲学の〈始源〉である根源的な知ではありえない。
 捉えなければならないのは、完全に実現されるのに時空の枠組みの中で展開されなければならないものではなく、時空の枠組み内の諸々の限定された知識の完全な展開を可能にしながら、それ自体は各瞬間に直接的に十全に自ら感得されるものでなければならない。〈ここ〉には、一度限り確立された内部と外部の単純な区別、そのために自己と非自己とが互いに排除し合う区別はない。この区別を前提すれば、自己は非自己から自らを引き離し、自己は知を自己の所有とし、知に属さない非自己からその知の所有権を剥奪する。ところが〈ここ〉では、自己の領域を非自己の領域に対して確定することが問題のではない。〈ここ〉は、内観が見るものと見られるものとの距離を前提とすると考えられるかぎり、内観が行われる自己の内部を指すのでもない。〈ここ〉においては、内部・外部という二項性を用いて事柄を言い表そうとするかぎり、内部に属するものはすべて外部に顕にされ、外部にあらわにされたものはすべて内部に属すると言わなくてはならない。まさに〈ここ〉において、「絶対矛盾的自己同一」は、そこで生きられている事柄そのものの表現なのである。
 真実在の根源的な知を探求へと身を投ずる者は、それゆえ、いっさいの前提なく自ら始まる始まりを〈いま〉〈ここ〉において感得することを索めなければならない。現実の根底に不動の実体を構成するものを何らかの仕方で、一度想定してしまえば、〈自ら働くもの〉の代わりに基底となるものを据え、そのようにしてその基底とそれによって支えられるものとの隔たり生じさせ、〈自ら働くもの〉から必然的に遠ざかってしまう。自らを現成させるのにいかなる基底も前提することなく〈自ら働くもの〉は、たえず各瞬間に始まり、自らを唯一無二のものとする。しかしながら、それをある瞬間にある形態において与えられるものと同一視することはできない。ある場所に固定されたものに還元されることも、遅かれ早かれ後から到来するものに取って代わられることもない。それは、定義上そこにはないものに取って代わるものである表象すべてから逃れてしまう。とはいえ、諸現象の底にあるいは彼方に定義上自己同一性を保つ実体として措定されるものとそれを同一視することもできない。真実在の根源的な知は、したがって、すべての実定的同一化から逃れる作用であり、真実在の動的自己同一性を、つまりそれが自らに自らにおいて現れることを直接感得する作用にほかならない。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(二)

2014-03-22 00:00:00 | 哲学

1 — 真実在の定義から導かれる哲学の方法

 最後期の西田は、哲学固有の方法を「否定的自覚」「自覚的分析」と定義している。どのようにして自覚を哲学の方法として立てることができるのだろうか。なぜ否定的自覚なのであろうか。なぜ自覚的分析なのであろうか。これらの問いに答えるためには、まず、西田において、哲学的方法は、「真実在」の定義と不可分であることを思い起こす必要がある。前者は後者から導き出されるからである。しかし、哲学の方法がそれとして真実在の定義から導かれる過程が明瞭にたどれるほど充分にその導出の手続きが記述されている箇所は、西田のテクストの中には見当たらない。そこで西田によってなされた真実在の定義から西田による哲学の方法がいかに導き出されるか、私たち自身でその導出を試みてみよう。そのために私たちは西田による真実在の定義が凝縮された形で示されている「デカルト哲学について」の次の一節を用いることにする。

然らば真実在とは如何なるものであろうか。それは先ずそれ自身に於てあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。自己否定を他に竢たなければならない。何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。


1.1 それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの

 この一節に見られる真実在の一般的定義は、「それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの」とすることができるであろう。そこから西田の哲学的方法にとって基本的ないくつかの規則、西田の哲学的思考の進め方を統御している規則を引き出してみよう。
 直接にそして十全に真実在をそれとして捉えるためには、探求されているものに対して外的なすべての観点を排除しなければならない。外から知られうるものは、独立の存在ではありえない。なぜなら、それを知るものも、知られるということも、それには含まれていないからである。完全に独立していてかつ直接的に把握できるものは、それ自身の内部そのものにおいて探求されなくてはならない。この意味において、探すものと探されるものとは一つでなければならない。言い換えれば、真実在は直接的にそれ自身において感得されるものでなければならないのである。真実在を直接的に把握することを目的とする哲学的方法は、それゆえ、必然的に直観的なものである。このテーゼは、すでに初期の西田において、ベルクソンの哲学的方法論に事寄せて次のように表明されている。「実在を知るには、これを直観するの外はない。」