内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

無用の用 ― 今日からブロク十二年目

2024-06-02 07:58:47 | ブログ

 昨日一日でこのブログを始めてから丸十一年になり、今日から十二年目に入ります。今日は未明から強雨、日曜は朝にと決めているジョギングもできず、この記事を書いています。
 ブログ十一年目一年間全体を振り返ってみるとき、よく考えもせず適当に書き流した記事が多かったという否定的な印象が自分のなかでは支配的です。完全に習慣化していて毎日書くのが当たり前になっていますが、それだけ惰性で書いているだけの日も多く、書くことによって思考が活性化したり、気づきがあったり、精神を集中させたりということは相対的に減ってきてしまっています。
 そんなわけで、実はこの一年、何度かやめどきについて考えたこともありました。やめたところで誰かに迷惑をかけるわけではないし、むしろブログのために毎日割いていた時間を他のことに使えるという利点もあります。同じく毎日続けているジョギングは心身の健康維持に明らかに貢献しているのに対して、ブログはいったいなんのためになっているかよくわからなくなってきました。
 最初の数年間はブログのために文章を毎日書くことが精神のバランス保持に明らかに貢献していました。精神療法的効果が如実にあったとさえ言えるほどです。授業の準備や論文作成のためにも役立ったという「実益」も少なからずありました。それに、これは私にとって最初からとても大切なことですが、ずっと読んでくださっている方々がいるということは、大げさでなく、心の支えであります。ここでそれらの方々にあらためて心より感謝申し上げます。
 では、読んでくださっている方たちのために書いているのかといえば、そこまでの思いを込めて書いているとは言えないというのが正直なところです。「お役立ち情報」的な要素はほぼ皆無な記事がほとんどですから、そういう意味での有用性もありません。
 そう、端的に言えば、このブログ、ほとんど無用なのです。ただ、これは以前から何度もこのブログでも言っていますが、少なくとも「生命反応」という意味合いはあります。一人暮らしですから、自宅で脳梗塞とか心筋梗塞とかでもし突然死ねば、数週間気づかれないままということもありえないことではありません。ブログの記事を毎日投稿していることは、その内容のいかんにかかわらず、「今日もなんとか生きています」という信号ではあるのです。
 それと、今まさにそれを感じているところなのですが、何かのためにということなしに書くという無用性こそが、ざわつく心を鎮め、折れかかっている心の痛みを緩和する鎮静効果をもたらします。無用の用、とでも言いましょうか。
 というわけで、なんのことはない、明日からもまた、まるで何ごともなかったかのように、坦々とした日々を過ごし、毎日記事を投稿していきますので、ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「これは、おそらく、天国への階段ではなく、地獄への落とし穴なのだろう」― 誰にも話を聞いてもらえない、動脈硬化に苦しむ独居老人のつぶやき

2024-05-22 05:12:01 | ブログ

 出し抜けなのですが、敢えて大嫌いな言葉を連続して使います。この二日間、ほんとうにたくさんの「学び」と「気づき」をいただいて、マジ感謝です!(うわっ、こう言った瞬間にその言葉を唾奇のように吐き出したくなる!)
 今言ったこととぜんぜん関係ないのですが、朝ドラ『虎に翼』、フランスにいながらオンデマンドで毎日一話ずつワクワクしながら観ています。ドラマの内容自体ももちろん素晴らしいのだけれど、それとともに、米津玄師の主題歌「さよーならまたいつか!」、いいなぁ。毎日聴いているのに、その日のストーリーの内容とは関係なしに、聴くたびにちょっとウルウルしてしまうのです(― 爺ちゃん、言いにくいんだけどぉー、病院行ったほうがいいかもよ)。
 さて、それはともかく、規模としてはミニチュア・レベルなのですが、ネット上でどのようにして「バズる」ということが発生するのか、そのメカニズムの一端を今自分のブログに生じていることを通じて垣間見ているところです。
 昨日の記事で告白しましたとおり、全体で300万件以上ある登録ブログのなかで拙ブログが9位になったことだけですでに開いた口が塞がらないほどに驚嘆していたのですが、その翌日である今日、天国から地獄に転落することを覚悟していたのにもかかわらず、なんと3位にまで上昇したのです。
 これって、私的には、テニスのグランドスラム大会の一つで、例えば来週始まる全仏オープンで、それまでまったく無名でやっとのことで予選一回戦に参加できたランキング100位以下のプレーヤーが準決勝まであれよあれよと勝ち残ってしまったくらいの衝撃なんですよね。
 と言った瞬間、でも、それとはまったく違うじゃん、とすぐに気づきます。だって、テニスだったら、それはなんだかんだ言って、本人にそれだけの力があるっていうことじゃないですかぁー(私、この言い方、実はすごく嫌いで。いつからなのでしょうか、特に女性たちがこの言い方を使うようになったの。マジ、虫酸が走る!― 爺ちゃん、そんな態度じゃ、女性に嫌われるだけでなく、はっきり言って、これからの世の中、生きていけないと思うよ)。
 ネットで「バズる」っていうのは、本人の実力とはほぼまったく関係ありません。少なくとも今回の私のケースはまったく関係ありません。拙ブログのある記事にブログを運営するスタッフの方がありがたくも「いいね」をしてくださいました。ただそれだけです。そのことに私は感謝しかありませんが、それがこのような数値をもたらすことに私は驚く、いや、恐怖さえ覚えるのです。
 何十万人、いや何百万人というフォロワーをもつ、世に言うところのインフルエンサーが、ちょこっと「いいね」をしたら、ほとんど直感的に、言い換えれば無思考的に、それに「賛同」あるいは「同調」して、膨大な「群衆」が群がる(って書いて、気づきました。これって冗語ですね。群衆は群がるから群衆なのですから)。
 それがいい意味で社会を動かすきっかけになりうることがあることは私も否定しません。でも、それは民主的ではない、と言いたい。なぜなら、民主的ということは、一人ひとりの意見を尊重するということだからです。それに耳を傾けるためには、どうしても、時間も手間もかかるのです。ただ、あらゆる場合に民主的であることが最良だ、とは言いませんが。
 でも、手間暇を全部すっとばして、たった数秒間で「いいね」数万件って、マジ怖い。おそらく、それは天国への階段ではなく、地獄への落とし穴なのではないかと、あらゆることに乗り遅れ、身よりもなく、老後に大きな不安を抱えている年寄りは、愚痴る相手もない孤独な陋屋で虚空に向かってつぶやくしかないのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拙ブログのランキングの爆上がりに一驚する

2024-05-21 02:37:17 | ブログ

 いやー、驚きました。って、拙ブログの昨日のランキングのことです。なんと全体の9位、pv が 14941、uu が 8743 という、まったく信じがたい数値がアクセス解析に表示されているではありませんか。
 2013年6月2日に開始以来11年間毎日投稿してきましたが、おおよそ pv が 800 から 1000 の間、uu が 500 から 800 の間、ランキングはずーっと1000番前後を行ったり来たり、2年前に250番台を記録したことが一度だけありましたが、それ以外は、良く言えば「コンスタント」、悪く言えばまさに「十年一日の如し」で、我ながらよくもまあ代わり映えのしないことを飽きもせず続けているものだと妙な関心の仕方をすることも度々あったほどです。
 この爆上がりの理由はわかっていて、一昨日の「日曜の朝、閑静な住宅街の車道を優雅に散歩する白鳥たち」という記事が goo blog スタッフのお目に止まり、ありがたいことに「いいね」を押していただけたからです(11年間で初めての「快挙」です)。やはりその威力は絶大で、この記事だけで 12881pv が昨日一日だけであったのです。
 言い換えれば、それがなければいつもと大差ない結果に終わっていたことでしょう。ですから、明日のランキングは「平常通り」に戻るだろうと予想されます。
 それにしても、この機会に拙ブログをご訪問くださった方々には厚く御礼申し上げます。それにもまして、長年に亘って読み続けてくださっている読者の方々には、この場を借りまして、改めて心より感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げる次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ままならぬブログは己の鏡か

2023-06-27 23:59:59 | ブログ

 今日は、このブログについての実にくだらん短い感想です。
 拙グログの記事を読めばすぐにわかることですが、明らかな手抜き記事も多々あるわけです。他方、結構頑張って書いた記事も少なからずあります。
 でも、こちらの力の入れようとか思い入れと訪問者数・閲覧数はほとんど対応していないことを思い知らされるたびごとに、やっぱり、ちょっと、悲しくなり、ため息をついてしまいます。
 今日はけっこうよく書けたなあと思って投稿しても、読んでくださるかたは情けないほど少ないことがしばしばある(もちろん読んでくださった方々への感謝は忘れていません)一方、二・三十分で書き飛ばした文字どおりの駄文が最高記録を更新したことは一再ならずありました。まあ、どっちにしろ大した数字ではないのですが。
 十年以上続けてきてこの体たらくなのですから、これが己の分とわきまえろということのなのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「命なりけり」日毎のエクゼルシス(exercices)― 今日からブログ十一年目

2023-06-02 09:24:42 | ブログ

 二〇一三年六月二日にこのブログを始め、昨日で丸十年になりました。ごく短い記事や引用だけという日もありましたが、昨日の記事の投稿後、とにかく十年間一日も休まずに投稿できたことにいささかの感慨を覚えました。
 中身はともかく、毎日投稿できたということは、続けようという意志だけで可能なことではなく、それは恵まれたことであり、たとえ他の人にはなんの意味もないことだとしても、私自身にとっては「命なりけり」にほかなりません。
 一月二四日にジョギング中に転んで肋骨に罅が入ったことは、自分の体への配慮の仕方に少なからぬ変化を引き起こしました。体の「声」により注意深く耳を傾けるようになったのです。わずかな違和感にも敏感になり、その推移を継続的に見守るようになりました。
 この姿勢は、三月三〇日に起こったもう一つの小さな出来事によってさらに日常化されました。この出来事はこれまでこのブログで話題にしませんでしたので、ここに少し詳しく記しておこうと思います。
 三月三〇日朝、乗るつもりだった電車に乗り遅れまいと、自宅から最寄りの路面電車の駅まで走った直後、駅のホームで急激な目眩に襲われ、ほんの数秒でしたが、気を失い、気がついたら仰向けにひっくりかえっていました。六十五年近く生きてきて初めてのことでした。幸い、背負っていたリュックがクッションになって、どこも強く打ったところはなく、かすり傷ひとつありませんでしたが、気を失ったことには相当にショックを受けました。
 我に返ったとき、どちらかといえば心地よい脱力感のなか、今にも雨が降り出しそうな曇天が視界いっぱいに広がっており、仰向けに倒れたまま、自分がなぜそんな姿勢でいるのか一瞬わからず、数秒後になってやっと、急激な目眩に襲われて目の前の手すりにしがみつきそれに耐えようとして耐えきれず転倒したのだと了解できました。
 立ち上がって振り向くと、倒れていたときの頭部の位置のさらに向こう側にヘッドホンと帽子が落ちていましたから、それなりの勢いで倒れたらしく、まったく受け身の姿勢を取ることもできなかったようです。もし荷物の詰まったリュックを背負っていなければ、後頭部を地面に強打していたかも知れません。
 幸い、その後再び強い目眩に襲われることはなく、その日の大学の授業も平常通り行うことができました。翌日と翌々日は、ジョギングは休み、ゆっくりと歩くだけにしました。そのかぎりでは何の違和感もなく、他に体の変調を感じることもありませんでした。
 ただ、ふと振り向いたり、ちょっと俯いたり、頭をさっと振り上げたり、上体を急に捻ったりするとき、一瞬軽い目眩に襲われることがその後一ヶ月ほど続きました。気にはなりましたが、日常生活にも授業にも支障はなく、気を失った日の三日後にはジョギングも再開し、以後、一日だけウォーキングだけにした以外は、今日まで一日も休まずにジョギングを続けています。
 特に、五月に入ってからは、目眩を感じることもまったくなくなり、体調はすこぶるよく、三回ハーフマラソンの距離を走り、月の走行距離が三九二キロに達し、これは私史上月間最高記録でした。
 ジョギングにせよ、ブログにせよ、規則はただひとつ。無理せず続けられるかぎりは毎日続ける。それだけです。到達を目指す目標はありません。日々の積み重ねによって何かを獲得しようということもありません。日毎のエクゼルシス(exercices)、それがすべてです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログの極私的効用 ― 「ああ、今日も生きている」という思いを噛みしめながら

2022-11-29 23:59:59 | ブログ

 他人を誹謗中傷したり、読む人が不快になるような言辞あるいはイメージ等を掲載したり、小耳に挟んだ噂話にすぎないことを事実めかして叙述したり、人に不利益や混乱を生じさせるために意図的にフェイク・ニュースを流したりする等、要するに悪意ある記事を書かなければ、何を書いてもかまわないのがブログのいいところだと私は思っています。
 読み手側は、ちらっと見てツマランと思えば、読まずに別の場所に移動すれば時間を無駄にすることもありませんから、人様に迷惑をかけることもまずありません。
 他方、途方もなく膨大な量の文章がそれこそ毎日二十四時間一年中ネット上に溢れ、それが何十年と続くわけですから(いや、それどころじゃないかも知れませんが、何十年先のことなど予想もできませんしね)、個人レベルでは、それらとの付き合いにも、遅かれ早かれ疲れてしまうのが自然のなりゆきのように思われます。
 かく言う私もこのブロクで十年近く毎日記事を書いていますから、その量はかなりのもので、自分でさえとても全部は読み直せないし、またそんなつもりもありません。その多くは書きっぱなしのまま放置されています。
 ただ、こうして続けていると、「ああ、そうだ、このことはかつて話題にしたことがあったな」と思い出すこともあり、そんなときはブログ内で検索をかけることで簡単に当該の記事を見つけられるのはやはり便利だなあと思うことはけっこうあります。ときには自分で自分の文章に感心したりすることもないわけではありません(って、これはただのナルシストでキモいですね)。
 というわけで、人様には何も面白くなく、何の役にも立たないことでも、本人が気になることを気軽にメモしておける場所として私自身にはとても重宝しています。
 それだけの話しだったら、自分個人のデータベースを作ればいいじゃないかと思われる方もいらっしゃると思いますし、確かにデータによっては人に知られたくないこともありますから、そこは使い分けということになります。
 私がブログに記事をアップし続ける理由はいくつかあります。前にも何度か書いたことですが、まずは「生存確認」のためです。「なんとか死なずに生きています、ブログの記事を書くだけの元気はあります」と「生存反応」を自ら発信しているわけです。それに、もしかしたら同じようなことに関心を持たれている方の目にとまるかもしれないという期待はあります。さらには、平均的に低空飛行を続けている閲覧数や訪問者数が突然激増する日が偶にあると、なるほど、こういうタイトルや記事内容には関心が寄せられるのかと、ちょっとした発見もあります。それは楽しみでもあります(めったにありませんけれどね)。
 正直ときどきちょっと疲れたなあと思うこともなくはないのですが、それでも飽きもせずに、大目標は立てることなく、「ああ、今日も生きている」という実感を噛みしめながら、続けていこうと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日からブログ十年目 ― ジョギングとブログの相補的関係から生まれる動態的思考、あるいは「ジョギング・シンキング」

2022-06-02 11:11:58 | ブログ

 今日六月二日からブログ十年目に入ります。先月はただ引用だけという「ズル」もしました(皮肉なことに、その日に「いいね」を普段以上にいただきました)が、とにかく毎日投稿という原則は辛うじて丸九年間守り通しました。
 凝り性というほどではないと自分では思っていますが、一度ある決意をもって始めたことは簡単には投げ出さないようにはしてきました。水泳は昨年六月半ば以降まったく止めてしまいましたが、それまで十一年以上続けていましたし、今は水泳に代わってジョギングを続けています。水泳は毎日とまではいかず、年平均二三〇回ほど、一番よく通った年でも二六五回でしたが、ジョギングはほぼ文字通り毎日続けています。連続運動記録も先月末に更新し、今日で百十六日連続になります。
 何か一つのことを続けているとそれが中毒のようになり、やめるにやめられなくなるということもあります。でも、アルコール依存症や薬物依存症は身体を蝕みますが、「ジョギング依存症」は基本的に健康を害することはないでしょう。もっとも、脚の痛みを我慢してまで無理に続けるところまで「症状」が進行すると、それも健康を害してしまうでしょうけれど。
 昨年七月、ジョギングを始めた直後は、初心者にはよくあることのようですが、前脛骨筋に痛みが出て、走ろうにも走れない日もありましたが、その後無理はしない範囲でとにかく続けてきたおかげで、今はどこにも痛みが出ることがありません。今年に入ってしばらく気になった左脚のアキレス腱の痛みもなくなりました。一時間で十キロを基本とし、明日からも走り続けます。
 今の私の日常生活にとって、ジョギングとブログは心身の健康を維持するために不可欠となり、かつ両者は相補的な関係にあります。
 具体的に言うと、ブログに書いた思いつきがジョギング中に「自ずと」展開したり、別のアイデアが浮かんで思考がより立体的になったりするのです。身体が静止状態のときに生まれた考えが、走りによって活性化され、動態化し、その動態化した思考をブログで文章として定着させる。その文章として定着させた思考が翌日の走りでまた動態化する。
 この終わりなき動態的思考を「ジョギング・シンキング」と名づけることを提案します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログ ― 毒にも薬にもなる「ファルマコン」

2022-04-03 17:37:56 | ブログ

 ちょっとわかりにくい言い方になってしまいますが、ほんとうはモノローグにすぎないものをダイアローグだと思いなし、あるいは、自分では両者をすり替えたことにも気づかずに、けっこうダイアローグができているつもりで会話を続ける、あるいは、そのつもりでこのブログの文章を綴ることを私は自分に厳禁しています。というよりも、それは、そもそも、不可能なことなのだと私は思っているのです。
 日常会話のことは措くとして、このブログに関してのみ言えば、そのタイトルが示しているように、これはどこまでも「内的自己対話」に過ぎません。つまり、どこまでいっても「おひとりさま」なのです。そんな精神的「ひきこもり」状態を、ブログで文章を「公開」することで擬似的に解消したつもりになっても、それは、とどのつまり、自己満足に浸っているに過ぎません。そう、ドストエフスキーの『地下室の手記』の「書き手」のように。そこには「他者」がいないのです。そんなことをもう九年間も続けています。
 でも、多分、当面、やめられない、と思います。ブログは、私にとって、「おひとりさま」状態で恍惚となる麻薬である、と同時に、捌け口のない悪感情を解毒する治療薬なのです。プラトンが『パイドロス』で言っていた「ファルマコン」の一種なのだと言ってもよいかもしれません。
 良い効能も確かにあるわけですから、むげに排除すべきものでもないでしょう。しかし、悪作用も確かにあるとすれば、その「服用」には、本来、「魂の医師」による処方箋が必要なのでしょう。ところが、ブログという「民間薬」は、処方箋なしに、誰でも、しかもタダで、いつでも入手できてしまう。仲介料も斡旋料も必要ありません。
 もしかすると、このブログを始めたとき、私は、それと知らずに、悪魔に魂を売ってしまったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日からブログ九年目

2021-06-02 12:30:14 | ブログ

 このブログを始めたのが2013年6月2日である。より正確には、アメーバブログでこの日に始め、二月ほど経ってから、それまでの記事を全部移動させる形でこちらに引っ越してきた。今日から九年目に入る。日数でいうと2923日連続で投稿していることになる。その間、数えたわけではないが、十数度一日のうち複数回投稿したこともあるので、記事の件数は三千件近い。
 何か継続的に行おうと決めたことは、十年は続けてみようと思っている。水泳に関しては、子供の頃にスイミングスクールに通っていたときを除けば、2009年8月にパリで始めた。すでに十年を超えている。ここ一月余り休んでしまっていたが、昨日から最寄りのプールが平常のフル稼働に戻ったので、明日から再開しようと思う。ただ、先月後半から始めたウォーキングの効果が体に目に見えて現れてきて、こっちの方が面白くなってきてしまったので、ウォーキングをメインとし、水泳はウォーキングの後の「おまけ」という位置づけになる。
 ブログに関して言えば、十年続けたからといって何か確かな成果が得られる保証はないが、それくらいの息の長さを目安にして、明日からも毎日投稿ということだけを原則に、無理に気張らずに、続けていきたい。歩くことや泳ぐことが心身の健康にとって有効であることは言うまでもないが、私にとっては、それと同じくらい、このブログの記事を書くことが心の健康の支えになっている。だから、頑張って書こうというのではなくて、ちょうど毎日規則正しく食事を摂ることが健康の基礎になるのと同じように、日々の良き習慣として続けていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


今日からブログ八年目 ― 旦旦、坦坦、淡淡と

2020-06-02 23:59:59 | ブログ

 2013年6月2日に始めたこのブログは、今日から八年目に入ります。原則はこれまで通り、毎日投稿することです。内容についても、新企画があるわけでもなく、だいたい同じような傾向になると思います。
 ただ、毎年元旦に、たいへん月次ながら、その年の抱負を書いていますが、拙ブログの節目はやはり毎年6月2日になりますから、その抱負とは別に、拙ブログの基本方針についてここで確認しておきたいと思います。
 ちょっと語呂合わせのようで、いかがわしいところがないわけでもないのですが、その基本的態度は、三つの「たんたん」に集約できます。
 まずは、「旦旦」。『日本国語大辞典』によると、その意味は、「毎朝。毎日。」毎朝というわけにはいきませんが、これまで通り、毎日、一日も欠かさず投稿するという意が込められています。
 次に、「坦坦」。同じく『日本国語大辞典』によると、「道や土地など、でこぼこがなく平らであるさま」というもともとの意味から転じて、「かわったことがなくふつうと同じように行なわれるさま。平凡なさま。」世の中に何が起ころうとも、いつもと同じように続けていこうという意が込められています。
 そして、「淡淡」。同辞典によると、「あっさりしているさま。物の色・味・感じなどが淡泊なさま。ものにこだわらないさま。」これまでの記事を振り返れば、ときに激した内容になってしまったこともなくはありませんでしたが、基本は、やはり、「あっさり」、「こだわらず」でいきたいと思います。この語には、「水などが静かに揺れ動くさま」という意もあって、これは私にとって散文の理想的イメージです。
 ただ、古語の「淡淡し」(あはあはし)は、「思慮もなく浅はかである。かるがるしい。うわついている」の意ですから、そうはならないように気をつけたいと思います。
 これからの一年も、旦旦、坦坦、淡々と、毎日「焼き立て」の文章を皆様の机下にお届けしたく存じます。