内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十二)

2014-03-15 00:00:00 | 哲学

3.1 最後期西田おける生命の定義

 西田哲学において、生命とは、真実在に他ならない。それは自己自身によってあり、自ら働き、自己限定するものである。西田が特に「真の生命」と言うとき、それは、私たちの自己によって直接に把握された生命を指す。人間も含めた生物一般によって生きられている生物の世界と人間に固有の世界を西田が区別するのは、この真の生命が直接に把握される可能性の条件が満たされる次元を特定する必要がある場面においてであり、人間を中心に置いた世界像を構築することがその目的なのではない。したがって、西田の生命の哲学を人間中心主義と見なすことはできない。私たちの自己において自らに直接現れる生命の自証をまさにそれとして捉えることが西田哲学の根本問題なのである。
 歴史的生命の論理において生命がどのように定義されているか見てみよう。

生命は絶対に相反するものの自己同一として成立するものでなければならない。

真の生命は死を含む 。

 この二つの命題から次の二つの命題が導かれる。第一に、生命は死という自己否定をそのうちに含んでいる。第二に、しかし、そのことはある全体の中にそれを否定する要素が含まれているということではなく、相互に還元不可能な相対立する二つの契機の同一性を意味している。
 では、それはどのような同一性なのか。言い換えれば、どのような意味で生命は死と同一であると言うことができるのか。この問いに答えるためには、私たちすべてを生かしている普遍的な生命と私たちそれぞれによって生きられている個々の生命との区別と関係を明らかにしなければならない。普遍的生命は、私たちそれぞれが生きている個別的生命に対して超越的なものではないし、私たちがそこに生きている環境世界の基底として偏在するものでもない。それは現象世界の彼方あるいは手前につねに自己同一的なものとして留まるような何ものかではない。しかしながら、普遍的生命は、人間を含めた諸々の生物の単なる集合体なのでもない。普遍的生命は、無数の個別的な生命として自己限定することそのことによって自己を具体的に実現していく。それぞれの個別的生命は、ある時ある所に、時間空間的に限定された生命として、例外なくその生誕から死へと定められたものとして現れる。個別的生命は、それが一個の独自の有限な人格として限定されつつ自ら行動するとき、普遍的生命の創造的要素として環境世界に現れる。この二つのベクトル、普遍的生命から個別的生命へと向かうベクトルと個別的生命から普遍的生命へと向かうベクトルが〈生命〉という唯一つの同じ現実を構成しているのである。

真の生命というものは、自己自身の中に何処までも否定を含むものでなければならない。それが歴史的生命である。

我々は内に絶対否定を含む歴史的生命の世界の個体である。

 それぞれ世界において独自な個体として行動する個別的生命が増えれば増えるほど、普遍的生命は、その普遍性を具体化していく。生命がそれぞれ独立して生きる無数の有限な個別的生命として自己を限定しているというそのことが生命の顕現に他ならない。個別的で有限な生命であるかぎりにおいて、私たちそれぞれは普遍的生命の否定である。しかし、まさにそれゆえにこそ、普遍的生命は、その自己否定によって、私たちにおいて具体化されるのである。私たちそれぞれがそれぞれの仕方で生きているということは、普遍的生命の否定の現実性に他ならない。しかしながら、まさにこの事実の中にこそ、普遍的生命の自己否定が現実化されているのである。個別的生命は、二つの対立する二項のうちの一項として普遍的生命に対立しているのではない。普遍的生命は、有限な個別的生命の無限の多様化という自己否定を通じてのみ現実化されるのである。このような普遍的生命と個別的生命との矛盾的同一性が〈生命〉に他ならない。そして、それがまさに西田の言う「歴史的生命の世界」である 。
 しかし、なぜ単に生命ではなくて、生命の世界なのか。生命は、無数の形を自らに与えながら空間において自己を展開しなければならない。生命一般はそれがそこにおいて形成される環境と不可分である。生命は、そこにおいて生物としての形を自らに絶えず与える環境との関係において自らを限定する。生命は、環境と共にある形態を構成する。生命と環境との関係は、一般に両者の相互依存と相互限定とのあり方によって特徴づけられる。ところが、人間における生命とその環境との間の関係は、相互依存と相互限定には還元されない。というのは、人間における生命は与えられた構成形態を変更したり、その中で自己が形成される新しい構成形態を創造したりすることができるからである。人間がそこから生まれながら能動的に変化させることができる環境を生物一般の環境から区別するために、西田は、それを特に「世界」と呼んでいるのである 。西田の言う生命の世界は、それゆえ、その厳密な意味においては、人間もまた生物として他の諸生物と同様に属する生物の環境世界を指しているのではなく、人間が他の諸生物と区別され、その創造的要素として行動する世界を指しているのである。
 では、なぜ単に生命の世界ではなくて、歴史的生命の世界なのか。生命は、自らの過去を保持しかつ自らを未来へと投企することによって、その普遍性を時間の中で具体的に更新しつつ現実化していく。生命の世界は、自らに与えられた諸形態によって自己を現実化しながら、自らにさらに新しい形を与えることで自己を展開させていく。この過程が歴史として具体的に形成されていく。したがって、西田の言う歴史的生命の世界とは、人間に固有な生命の世界のことだけを指しているのではなく、人類の歴史もそこに含まれた生命の全展開過程を指しているのである。