内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(五)

2014-03-08 00:00:00 | 哲学

2 — 哲学の〈始源〉としての自覚


 自覚という概念が『善の研究』以後最後期に至るまでの西田哲学の生成発展過程においてその基軸としての機能を果たしていることは論を待たない。純粋経験は、その最初の瞬間にとどまるかぎり、たとえ哲学にその根本動機を与える原初的事実であるにしても、それ自体は哲学ではなく、それ以前に留まる。哲学の始まりは、純粋経験の自発自展の過程の中に必然的に含まれている契機の一つであるとしても、その契機が現実を構成するその他の諸契機から区別され、まさに哲学の始まりとして事実経験される瞬間の規定を『善の研究』の中に見出すことはできない。自覚という概念は、西田によって生きられている純粋経験がその限界を自ら突破していく決定的な契機として西田哲学の中に導入され、西田哲学固有のその他の諸概念と相互に規定し合いながら、展開・拡張・深化させられていくが、それはまさに哲学の〈始源〉への一つの遡行過程にほかならない。

2.1 〈自覚〉概念の発展の四段階

 私たちは、まず、自覚概念が西田哲学固有の契機として導入、展開され、場所の論理による飛躍的拡張を経て、さらにまた新たな地平において根本的に捉え直される最後期に至るまでの全過程を四つの段階に分けて略述するが、その作業を通じて自覚概念の〈自己〉〈主体〉〈意識〉等の概念との関係における規定を明確化し、西田の自覚論が提起する諸論点を近代哲学の基本的な脈絡の中に位置づけていく。

2.1.1 自覚の基本構造 —「自己が自己に於て自己を見る」
 純粋経験をその最初の純粋性を失うことなしにそれとして思考することはどのようにして可能なのか。この純粋経験と反省的思考との統一という問題は『善の研究』の純粋経験論に対して提起されざるをえず、しかもその中に留まるかぎり解決しえない。自覚概念は、この問題に対する解答として導入される。つまり、自覚は、最初の純一性の経験である純粋経験とその純一性を思考することとが事実統一されている現実の次元およびその構造を意味している。
 自覚の基本構造は、「自己が自己に於て自己を見る」こと、つまり、自己が自己を自己の内部に投射することと定式化されうる。西田は、この自己における自己投射という内的経験において自己自身を見る自己を「ノエシス的自己」、この自己によって見られる自己を「ノエマ的自己」と呼ぶ。西田は、他方、自覚を「考えることを考えること」とも定義する。したがって、この内的経験において、考えるもの即ちノエシス的自己と考えられるもの即ちノエマ的自己とは、一つの経験を成立させる不可分・不可同の双性をなす基本契機にほかならない。
自覚は、さらに、「知るものが知るもの自身を知ることであり、自覚に於ては知るものと知られるものとが一である」とも規定される。この知るものと知られるものとの同一性とは、どのような同一性なのだろうか。「自己は自己に於て自己の内容を限定し自己の中に自己の内容を映すことによって知るのである、自ら無にして有を限定するということができる。」つまり、ノエシス的自己が自ら無としてノエマ的自己がそこにそのまま現れるようにさせるかぎりにおいて成立する同一性なのである。言い換えれば、ノエシス的自己は、ノエマ的自己がある限定された形において機能するものとして現れるまさにその場所において、自らにいっさいの距離なしに現れているのである。西田は、このノエシス的自己を「相対無」と呼んでいるが、それは、この自己との関係において、より端的に言えばこの自己において、ノエマ的自己がそれとして現れるからにほかならない。内的経験としての自覚における自己の自己への現前は、このような無と現れることとの同一性に拠っている。しかし、この段階に留まるかぎり、自覚は考える主体の作用という圏域を超えるものではなく、したがって、自覚概念は、超越論的主観性の理論的枠組みを超え出るものではない。