内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン『天の啓示の調和の音楽』

2015-04-30 04:33:29 | 私の好きな曲

 昨日までの一月余りに渡って、ライン河流域地方神秘主義の頂点であるエックハルトへと至るヨーロッパ中世のキリスト教神秘思想の歴史の流れを、エックハルトに何らかの影響を与えたと見られる女性神秘家たちの作品を年代順に訪ねることから始めて、いわばエックハルトという最高峰の麓のベースキャンプに辿り着くところまで旅してきた。山頂へのアタックは、しかし、しばらく先の事になるだろう。
 この間ずっと繰り返し聴いていた音楽がある。それは、今回の一連の記事ではエックハルトへの直接的な影響はないとの理由で4月2日の記事で一言だけ言及した、「ラインの女性予言者」と呼ばれるヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179)の声楽曲である。おそらく西洋中世最初の女性作曲家であるヒルデガルトは、見神体験時に天上から妙なる音楽が聞こえて来たらしい。その旋律に合せて彼女自身によって作詞されたラテン語の歌詞の内容や知己との往復書簡の中の記述などから、そのように考えられている。聴いていると、きっとそうであったろうと思われてくる。
 今日の私たちにとって大変ありがたいことに、ヒルデガルト全作品の素晴らしい録音がある。西洋中世音楽専門の演奏グループとして国際的名声を得ているセクエンツィアによる演奏である。今日の記事のタイトルは、その作品の一つ Symphonia harmoniae caelestium revelationum からとった。中世では、« Symphonia » は多義的な言葉であったが、ヒルデガルトのこの作品においては端的に「音楽」全体を意味している(Hildegarde de Bingen, La symphonie des harmonies célestes, traduit du latin par Rebecca Lenoir et Christophe Carraud, présenté et annoté par Rebecca Lenoir, Jérôme Millon, 2003)。
 およそ八百五十年前に、霊性に満たされた一人の聖女によって、ライン河流域の女子修道院で作られた、天上から流れ来る清水のような音楽に、今日も心が癒やされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(三十二)― 「離脱」から「永遠の誕生」へ(三)

2015-04-29 05:45:51 | 哲学

 上田閑照『マイスター・エックハルト』第十章「離脱について」から昨日引用した箇所の二行後では、神性の「無」が上田の解釈の前面にせり出してくる。

離脱において、無になって神を受容し(無になった魂に神が神の子を生みこむ)、そこに停まらずに離脱の徹底として、受容した神を捨てる(got lâzen)ことによって無に徹する(これは人間に向いた神を突破して神自身の内奥――神性の無――に徹すること)。神の子であるという在り方を捨てて、神でもない被造物でもない無において「我あり」の自由が開かれる。神の子(エックハルトの場合は、即ち子なる神)として神の生命によって生かされて生きるところから、神の生命にも大死し、神なくして生きる(âne got leben)ところへと徹する。その際「神なくして」に、人間が人間の方から「神」、「神」という神ではなく、神における神、即ち「無」なる神が現前する(『上田閑照集』第七巻、252-253頁)。

 この引用の最後に見られる「「無」なる神が現前する」という表現は、きわめてミスリーディングな表現である。なぜなら、エックハルトにおいては、一切の現前以前の神が神性なのであり、したがって、「無」なる神が「現前する」ことはない。しかも、この「無」は神性の究極の審級ではない。神性を「無」とするのは、ある限定された文脈の中においてのみであり、「神性=無」という等式は、普遍妥当的な一般的等式としては、エックハルトにおいて成り立たない。
 Marie-Anne Vannier によれば、「無」へと導く「離脱」は、エックハルトにとって、「魂の内における神の誕生」を準備するための予備的階梯に過ぎない。「無」は、それゆえ、エックハルト神秘主義にとって、最終的に到達すべき目的ではなく、その目的へと至る手段に過ぎない(voir Marie-Anne Vannier, De la Résurrection à la naissance de Dieu dans l’âme, Cerf, 2008, p. 15 ; Benoît Beyer de Ryke, Maître Eckhart, Entrelacs, 2004, p. 202, n. 111)。
 その最終目的である「魂の内における神の誕生」を、Vannier は、「連続的受肉」(Incarnation continuée)と呼ぶ。なぜなら、エックハルトによれば、〈受肉〉は、単に一つの歴史的出来事ではなく、今日の私たちにも第一義的に関わる現実だからである。今日のキリスト教徒の魂の内での御言の誕生は、〈受肉〉という歴史的出来事に、今、現に、呼応している。
 このような主張の根拠になっているのが、 Georg Steer による数十年の緻密を極めた校訂作業の結果、エックハルト自身の手になると認定され、二〇〇二年から二〇〇三年にかけてドイツで出版されたドイツ語説教一〇一番から一〇四番である(その仏訳は、Sur la naissance de Dieu dans l’âme, Sermons 101-104, traduit du moyen haut allemand par G. Pfister en collaboration avec M.-A. Vannier, Préface de M.-A. Vannier, Arfuyen, 2004)。ノエルの一週間に行われたこの一連の説教の主題がまさに「魂の内における神の誕生」なのである。これらの説教の中でエックハルトは何よりも「永遠の誕生」に関心を注ぐ。説教一〇一の冒頭を引く。

この時、私たちは永遠の誕生の時の内に入ります。この永遠の誕生によって父なる神は生んだのであり、絶えず生み続けるのです。それは、この同じ誕生が、今日、時の内において、人間の本性の内に生まれるためにです。聖アウグスティヌスはこう言われています、「この誕生がいつも生まれますように」、「それが私の内で生まれないとしたら、いったいそれが何になるでしょうか」「それが私の内で生まれること、それこそが大切なことなのです」と。

 Vannier は、エックハルトをキリスト教の正統的思想家の一人として復権させようとしているかに見える。厳密なテキスト読解とライン河流域神秘主義全体への行き届いた目配りに裏付けられたその議論には説得力がある。
 しかし、今日の世界の思想状況の中で、エックハルトをキリスト教の「正統的」伝統の中に回収することが最終的な思想的課題ではありえないことは言うまでもない。「非キリスト教的」上田解釈か「キリスト教正統派的」Vannier 解釈かという「解釈の葛藤」をめぐる議論については、専門家にそれを委ねよう。それぞれ互いの既得権を脅かさないという暗黙の了解を前提とした「宗教間の平和的対話」などが現実世界の紛争に解決の緒をもたらすことももちろんありえない。
 現実の歴史的文脈の中で、縁あって置かれた場所に立ち、そこで自らを歴史の中にその一つの小さな環として「書き込み」つつ、それぞれの〈信〉を内側から根本的に問い直すこと、これのみが各個人にとって真剣な思想的課題であり得ると私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(三十一)― 「離脱」から「永遠の誕生」へ(二)

2015-04-28 00:00:11 | 哲学

 フランス語圏のエックハルト研究者たちは、管見の及ぶかぎり、昨日の記事の中で述べたような間宗教的比較研究に対してきわめて慎重であり、あからさまに懐疑的な姿勢を示すことも珍しくはない。しかし、そのような一見「保守的」とも見える態度に対する賛否については、これをここでは一旦脇に置いて、エックハルトにおける「無」の解釈をめぐる、上田閑照の考察と、それと対蹠的な立場を代表している Marie-Anne Vannier の考察とを比較することによって、神秘思想解釈に付き纏う問題の所在を垣間見てみよう。
 上田閑照は、『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)の第十章「離脱について」で、エックハルトにおける「離脱」について立ち入った考察を行っている。その章のはじめの方に、上田の読みの方向をよく示している箇所がある。エックハルトのドイツ語説教の全体に通ずる基本的なテーマである「魂の内における神の子の誕生」という出来事が直接語られる説教について、上田は次のように言う。

そこに含まれている合一の徹底化、或る種の過激性は、キリスト教神秘主義における伝統的な枠を超え出るものがあると言わざるを得ない。ケルン時代の特色ある説教には、その超え出たところが強く出てくる。そのせり上がり超え出る動向を、そこだけ際立たせる場合、エックハルトは、魂の「神性の無への突破」と言う。「魂の内における神の子の誕生」と魂による「神性の無への突破」とは、前者における受動性と後者における魂の能動性というように際立った対照をなしており、テーマとしては別々に見ることも出来るが、神とのかかわりにおける魂の実存動性としては、前者から後者への質的な飛躍を伴う徹底と見るのがエックハルトに則した見方になるであろう。その徹底の要にあるのが「離脱」という根本思想である(252頁)。

 この箇所だけでも、少なくとも次の三点を解釈の問題点として挙げることができる。第一に、「神性の無」という言い方は、「神性」と「無」とが等価、あるいは「無」に神性の本質を見る傾きを示しているが、後に見るように Marie-Anne Vannier は、このような「無」の絶対化に強く反対している。第二に、「魂の内における神の子の誕生」と「神性の無への突破」とが受動性と能動性として対照をなしているという見方もテキストによって必ずしも支持され得ない。私見によれば、そのような対照性は見かけに過ぎない。むしろそのような対照性が消え去る次元が問題なのだと私は考える。したがって、第三に、「魂の内における神の子の誕生」と「神性の無への突破」との間に、前者から後者への「質的な飛躍を伴う徹底」を見ることは、エックハルトにおける「離脱」の次元を決定的に見誤らせる危険なしとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(三十)― 「離脱」から「永遠の誕生」へ(一)

2015-04-27 05:59:44 | 哲学

 「離脱 abegescheidenheit」と「放下 gelâzenheit」という二つの根本語によって帯電されたエックハルト神秘思想の圏域にいくらかでも接近するための予備的考察として、キリスト教史の枠内でのライン河流域神秘主義の思想史的・系譜学的祖述をここまで続けてきた。その作業を今日から三回の一連の記事で一応締めくくり、しばらくこの問題から離れる。エックハルトのテキストそのものの本格的な読解に取り組む準備はまだ十分にはできていないというのがその主な理由である。今からいつとは決めがたいが、いつかまたこの問題に立ち戻ってくるであろう。
 これまで垣間見たエックハルトの言述からだけでもわかることだが、その表現の中には、それを当時のキリスト教世界の歴史的文脈から切り離しても、いやむしろ切り離すことによってさらに、煌きを増すかのような言葉が随所に見られる。このエックハルトのテキストの「神秘的」魅惑は、その思想を、それが生まれた歴史的文脈とはまったく異なった文脈の中で形成された他の世界の「神秘的」あるいは「秘教的」思想と比較することへと私たちを誘惑してやまない。
 事実、そのような試みも少なくない。人は、イスラム教、ヒンズー教、道教、あるいは禅仏教の中にエックハルト思想の谺を聞き取ろうとする。あるいは、それらの間の「表層的」表現の差異の彼方に通底するであろう根本思想を見出そうとする。しかし、世界思想史の幾重にも積み重なった厚い地層のさらに奥の深層にまで知的・霊的探究を試みることができるのは、一世紀に何人かしか出ないようなごく少数の大天才だけであろう。
 厳密な校訂を経たテキストに基づいたエックハルト研究が本格化するのは、一九三〇年代半ばに批判的全集の刊行が始まって以降のことである。特に、そのラテン語著作の重要性が強調されるようになったのは、ラテン語著作集がほぼ完成してからのここ数十年間のことに過ぎない。それまでは、エックハルトの独創性を賞揚するにしても、それはもっぱら不完全な校訂しか経ていないドイツ語説教のテキストにのみ依拠していた。しかも、この説教は、エックハルト自身によって書かれたものではない。弟子たちなど説教を聴いた者たちの手によって編集されたものである。だから、それらは、厳密な意味では、エックハルトの著作とは言えない。それゆえ、ドイツ語説教のみによってエックハルトの思想を語ることは、最初から学問的手続きとして大きな問題を孕んでいるのである。ましてや、そこから抽出された神秘主義的教説を、まったく伝統を異にした宗教の教説と比較して、両者の親近性を云々することには、テキスト・クリティックを基礎とした思想史研究の立場からすれば、大きな踏み外しの危険がいつも付き纏う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十九)― 知性の啓示と愛の経験とを超えて

2015-04-26 05:45:07 | 哲学

 いかにして認識不可能な神への恩寵による聖化を伴った神化が人に起るとエックハルトは考えているのかを私たちはここまで見てきた。その出発点には二つの基本的要素があった。超本質的な神性へと接近する途としての否定神学と、魂の根底と神の根底との合一の結果としての神化とである。ここで提起されるのは、この離脱による神秘的合一には愛が介入する余地はないのか、という問いである。
 エックハルトの神秘思想の特徴を、エックハルトが属するドミニコ修道会とフラシスコ修道会との当時における教説に関する対立という文脈の中で解釈する研究者たちもいる。前者が知性主義を標榜するのに対して、後者は愛や意志に優位を置いている。確かに、前世代に属するトマス・アクィナスと同様に、エックハルトは、認識による知性的合一を愛による合一の上位に置いている。
 4月18日の記事で見たように、アウグスティヌスに影響を受けたフランチェスコ会士ゴンザウルスとの討論の中で、エックハルトは、神においては知性が存在に対して優位を占めるということを主張している。「神は、在るがゆえに知解するのではなくて、知解するがゆえに在る」、それゆえ、神にあっては、「知解が存在の根拠であって」、その逆ではない、と言う。そして、ゴンザレスに抗して、神への接近においては、認識(intellectus)が意志(そこには愛も含まれる)に対して優位に立つと主張する。神と人との合一においては、認識が愛に優るということである。
 しかしながら、エックハルトにおける離脱は、けっしていわゆる知性主義に還元されうるものではない。離脱は、愛による合一と知性による合一のいずれよりも上位に置かれるからである。それは、根底的無における合一である。そこには、一切の顕現が不在である。理性と信仰の調和的照応という、アンセルムスからトマス・アクィナスにいたるまでの神学的探究の根本的要請の伝統と完全に切れてしまうことなく、エックハルトは、神との合一をあらゆる知的操作より上位に置く。
 エックハルト及びその直弟子たちが当時の時代状況の中で引き受けようとしていた思想的課題について、西洋中世思想史の大家 André Vauchez は、その名著 La spiritualité du Moyen Age occiedental VIIIe – XIIIe (première édition, PUF, 1975 ; nouvelle édition augmentée, Seuil, « Points Histoire », 1994) の中で、以下の様な見事な要約を提示している。

Spirituels parce que théologiens, Maitre Eckhart et ses disciples se sont efforcés de dépasser l’opposition entre les auteurs d’inspiration augustinienne, qui soutenaient que la recherche de l’union à Dieu ne pouvait parvenir à son but qu’en s’appuyant sur la puissance affective de l’âme (« Où échoue l’intellect, là réussit l’amour », selon une formule de saint Bernard, reprise par saint Bonaventure), et les partisans d’une démarche cognitive purement intellectuelle. Posant comme postulat l’identité de l’être et de Dieu, la mystique rhénane chercha à accéder non à une simple union de l’âme et de son Créateur, mais à ce que Maître Eckhart appelle l’unition, c’est-à-dire une connaissance selon l’Un antérieure à la distinction des deux puissances de l’âme (intellect et affectivité/volonté) mais aussi à celle des trois personnes de la Trinité (Père, Fils et Saint-Esprit) qui appartiennent à la manifestation de Dieu et refluent dans la Déité. Ainsi l’illumination de l’intelligence et l’expérience de l’amour, loin de s’opposer, permettent le retour de l’homme à son originel, en ce Dieu qui est à la fois son principe et sa fin (p. 146. 一箇所、文法的に誤っていると思われるところを訂正した).

神学者であるがゆえに霊的であったマイスター・エックハルトとその弟子たちは、神との合一は、魂の情感的能力に基づくかぎりにおいてその目的に達することができると、アウグスティヌスの影響下で主張する(例えば、「知性が挫折するところで、愛は成功を収める」という、聖ベルナールに由来し、聖ボナヴェントゥラに継承された表現に見られるように)著作家たちと、純粋に知的な認識過程の支持者たちとの間の対立を乗り越えようと努力を傾注した。存在と神との同一性を公準として措定するライン河流域神秘主義は、魂とその〈創造者〉との単なる合一に至ろうとするのではなく、マイスター・エックハルトが「〈一〉化」(unition)と呼ぶところのものを追い求めた。つまり、魂の二つの能力(知性と情感あるいは意志)の区別に先立ち、かつ三位一体の三位格(父と子と聖霊)の区別にも先立つ〈一〉による認識を追い求めたのである。この三位格は神の顕現に属するものであり、神性に再び還流する。かくして、知性の啓示と愛の経験とは、対立するどころか、人のその起源への、つまり同時にその原理でありかつ目的である神への回帰を可能にするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十八)― 「自由心霊派」に抗して

2015-04-25 05:48:02 | 哲学

 エックハルトは、「唯一なる〈一〉」においては人と神とはもはや区別されないと主張する一方、キリスト教徒の神化における恩寵の役割を強調する。その立場から、エックハルトは、「自由心霊派」に真っ向から対立する。同派の信徒たちに対して、次の二面において戦う。
 第一の面は、同派の制約なき自由の教説の批判という形を取っている。例えば、ドイツ語説教二十九の中で、「ところが、ある人たちは、「私は、神とその愛を所有するならば、何でも自分の望むことができる」と言っているが、彼らは正しくこの言葉を理解していない(つまり、自分たちの言っていることがよくわかっていない)。あなたが神に反対しその命に背いて何かができるときはいつでも、あなたは神の愛を持ってなどいないのだ」とエックハルトは述べているが、この「ある人たち」とは、「自由心霊派」の信徒たちのことである。
 第二の面は、人の働きの有用性の擁護という形で表現されている。説教八十六は、ルカによる福音書第十章第三十八-四十二節の「マルタとマリア」の話について、マリアのあり方を優位におく伝統的解釈に反対して、マルタがその生活の中の立ち働きにおいて観想を忘れてはおらず、むしろマリア以上に神の認識において成熟しているという、エックハルト独自の解釈を提示している。この意味において、エックハルトは「静寂主義」(quiétisme)には属さない。
 この聖書の箇所は、通常、「なくてはならぬ唯一つのもの」のために一切を放擲して主のみもとに座し御言に聞き入っているマリアの在り方のほうがイエスによって義認されていると解釈される。ところが、エックハルトはこの説教でその解釈を逆転させ、接待のために忙しく立ち働き、さまざまなことに思い煩って心労しているマルタの方に完全性を見るのである。聖書の文面からすれば強引とも言えるこの解釈は、「完全なるもの」をマリアと呼び、その他の者たちをマルタと呼ぶ「自由心霊派」に見られる日常の活動的生活の軽視に反対して、いわば戦略的に選択されていると見るのが穏当であろうと私は考えている。
 この説教については、上田閑照『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)の中に詳細な考察がある(三一七-三四一頁)。そこで上田は、同説教を、「「神のために、神を去る」方向をふまえていると解される仕方で「友のために、神を離れる」に相当する在り方を具体的に展開している独特な説教」として、独自の考察を展開している。しかし、上記のような当時の歴史的文脈を軽視し、エックハルト解釈全体の中で同説教に過剰な重要性を与えているその思弁的解釈に私は批判的である(この点については、二〇一三年八月十三日十四日の記事を参照されたし)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十七)― 「唯一なる〈一〉」(einic Ein)があるのみ

2015-04-24 10:29:02 | 哲学

 エックハルト神秘思想についてのこれまでの系譜学的祖述を踏まえた上で、媒介なしの神との合一から結果する「神化」(déification)を、エックハルトがどのように考えていたかを見ていこう。
 まず強調しなくてはいけないことは、当時の異端運動「自由心霊派」に見られるような自己神化とエックハルトにおける神化とは、決定的に異なっているということである。前者においては、いわば己が望むままに、己の魂のうちに神のために空なる場所をもうけることによって自己神化が成就されうると考えられている。ところが、エックハルトは、被造的なものと非被造的なものとの接合が成り立つ場所が魂のうちに穿たれる聖化の恩寵の役割を強調する。
 この場所を言い表すのに、エックハルトは暗喩等様々な表現を繰り出す。例えば、「小さな城塞」 (Bürgelîn)、「魂の煌き」(scintitilla animae, Vünkelin der Sêle)、「心の奥処」(abditum mentis)「秘められた根底」(Grûnt)、知性(Intellect)、あるいはまた「魂の至高なる処」(syndérèse)などがそうである。
 人にあって神を受け入れることができる場所は、その最も内なる奥処である。そこは、魂の内の非被造的で被造不可能な場所である。この魂の場所は、そこにおいて神が神自身と出会う媒介の審級である。
 このような思想は、ある個別的タイプについてのキリスト教的「範型主義」(exemplarisme)によっても支えられている。この範型主義はプラトン主義に由来する。イデアあるいは祖型は感覚的事物の範型であるとするこの考え方がキリスト教化されるとき、それは、あらゆる創造は創造主の思惟のうちにあらかじめ存在しており、創造されたすべてのものは創造に先立って永遠に神のうちに憩っているということを意味するようになる。
 エックハルトにおける範型主義は、それによって各個人が神に結び付けられている個別的祖型を再び見出すことからなっている。この祖型は、いわば人における神的な部分である。それは魂の最も内奥に秘められている。そこにおいて、魂は、神の根底に合流する。そこには、もはや、被造物もなければ神もない。ただ、「唯一なる〈一〉」(einic Ein)があるのみ。
 エティエンヌ・ジルソンは、その大著 La philosophie au Moyen Âge (初版1922,Payot, 1988) において、このエックハルトの範型主義について、明快な注解を示している。

Une telle doctrine conduisait droit à l’union de l’âme à Dieu par un effort pour se retrancher dans cette « citadelle de l’âme » où l’homme ne se distingue plus de Dieu, puisqu’il n’est plus lui-même que l’Un (p. 698).

このような教説は、この「魂の城塞」の中に立てこもる努力による魂の神への合一へと直ちに導いた。この魂の城塞において、人は、己自身であるよりも〈一〉なのであるから、もはや神とは区別されない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十六)― 「神の如くになる」か、「神と同一になる」か

2015-04-23 09:20:46 | 哲学

 「神化 déification」(あるいは「神格化」)という主題は、キリスト教全体の歴史を鳥瞰すれば、けっして「異端」ではない。むしろ、その中心的主題の一つだとさえ言うことができる。「神が自らを人の姿になした(Incarnation)のは、人が神となる(Inhabitation)ためである」と言われるときがそうである。この意味で、神の人間化は人間の神化に対応している。
 この教説は、教会教父たち、とりわけ、多くの古代ギリシャ教父たち(Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart, une mystique du détachement (op. cit.) には、オリゲネス、ニュッサのグレゴリオス、偽ディオニュシウス・アレオパギタなど、十三人の名前が挙げられている)によって繰り返し主張され、幾人かのラテン教父たち(アウグスティヌスやレオ一世)によっても、より弱められた表現によってであるとはいえ、支持されている。この意味では、神化(théosis)の教説は、キリスト教神学の伝統の中でいわばお墨付きを得ているわけで、とりわギリシア正教では中心的教義でさえある。
 ところが、西洋における中世スコラ神学の伝統の中では、エックハルト以後、「受肉」(Incarnation)による神化が個々の信徒においても現働するという意味での「神化」というテーマは忘却されていく。再びこのテーマが見いだされるためには、十九世紀まで待たなくてはならない。
 この点で、エックハルトの諸著作の全体的解釈において、今日でも最も優れた研究の一つに数えられている Théologie négative et connaissance de Dieu chez Maître Eckhart ([マイスター・エックハルトにおける否定神学と神の誕生],初版1960, Vrin, 1998) の著者 Vladimir Lossky (1903-1958) が、正教会を代表する大神学者であることは偶然ではないであろう。この著作の中で Lossky が論証しようとしていることは、エックハルトは、汎神論者でなく、「神化」(神格化)という正教会の偉大なる伝統的教説に近い立場を取っていた、ところが、この立場が当時の中世ラテン・キリスト教世界では正統と認証され得なかった、ということである。
 この観点からすれば、エックハルトは、正統から逸脱した「危険な」教説を主張したのではなく、まったく「正統的(orthodoxe)」(異端ではなく、正教会の伝統に連なるという二重の意味で)だったのである。
 とはいうものの、この「神化」の解釈をめぐっては、今日でも、大きく二つの流れに分かれている。「神化」とは、「神の如くになる」(analogie)ことか、「神と同一になる」(univocité)ことか、という二つの方向性である。
 前者の場合、これはエックハルトの神秘主義的教説をトマス・アクィナスの神学の正統的な流れの中に回収しようとする学者たちに多く見られるのだが、「神化」とは、類比(analogie)そして分有(participation)によって統御された、神と人との「垂直的」関係であると考える。
 後者の場合、これは今日のボッフム学派の代表的学者である Burkhard Mojsisch が Meiter Eckhart, Analogia, Univozität und Einheit (Hambourg, Felix Meiner, 1983) の中で主張している解釈だが、その解釈によると、神と人との関係は、一義性(univocité)を根拠とした「水平的」関係である。
 Mojsisch によれば、この一義性こそ、エックハルト神秘思想の中心的テーマをなす。神的系譜化(filiation divine)において、神と人との間に成立する関係は、同一性である。この「神化」における神と人との同一性のテーゼと、被造世界と造物主としての神との関係においては維持される類比のテーゼとは、エックハルトにおいて矛盾しない、と Mojsisch は考えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十五)― 「主たる御霊によりて主と同じ像に化するなり」

2015-04-22 09:04:59 | 哲学

 人のうちでの神の誕生と神のうちでの人の誕生という二重の誕生において、超越は内在となる。しかし、エックハルトにおける、この「超越即内在」は、精神的内在主義であって、哲学的汎神論ではない。
 この二重の誕生において離脱した魂の状態を指し示すために、エックハルトはまた「貧」(Armuot)についても語る。エックハルト全説教中最も有名なドイツ語説教五十二は、マタイによる福音書第五章第三節「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」(Beati pauperes spiritu, quoniam ipsorum est regnum caelorum)の釈義という形を取りつつ、この「貧」を主題とする。
 この説教の中で、エックハルトは、神に向かって、自分を神から解放してくださるようにと祈る。ここで言われる神とは、被造物の造り主としての神である。とりわけ、エックハルトは、三つの「貧」について語る。すなわち、「意志の貧」「知の貧」「所有の貧」である。「何も意志せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である」(『エックハルト説教集』岩波文庫、162頁)。
 あらゆる被造物から離脱した魂は、その非被造的状態に立ち戻り、かくして、「神がその本性によってそうであるところのものに恩寵によってなる」(この表現は、エックハルトによってしばしば用いられるが、七世紀に活躍した神学者にして修道士であった聖マクシモスに由来する)。その深奥の本性に適い、真に己自身であるためには、魂は神と合流し、神とならなくてはならない。エックハルト神秘主義の最終目的は、このようなキリスト教徒の真の神化(théosis, deificatio)なのである。
 この最終目的を、エックハルトは、ドイツ語説教・論述の中ばかりでなく、ラテン語著作の中でも、はっきりと表明している。例えば、『ヨハネ伝福音書注解』の中の同福音書序文(第一章第一節から第十八節まで)の注解において、次のように記している。

Primo, quod fructus incarnationis Christi, filii dei, primus est quod homo sit per gratiam adoptionis quod ipse est per naturam, secundum quod hic dicitur : dédit eis potestatem filios dei fieri, et Cor. 3 : « revelata facie gloriam domini speculantes, in eandem imaginem transformamur a claritate in claritatem ».

神の子キリストの受肉の最初の果実とは、人が、帰依の恩寵によって、神が本性によってそうであるところのものになることである。それは「神の子となる権をあたへ給へり」(ヨハネ伝福音書第一章第十二節)とあり、また、「コリント後書第三章」に、「我等はみな面帕なくして鏡に映るごとく、主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像に化するなり(第十八節)とある通りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「離脱・放下」攷(二十四)― 「離脱」あるいは「空なる魂における神の誕生」

2015-04-21 07:57:07 | 哲学

 エックハルトにおける〈一〉性(Einekeit)にあっては、人と神とは〈一〉ならざるを得ない。この〈一〉性は、いわば神と人との共通の起源である。この起源への帰還が、エックハルトが説教の中で語る神秘的合一の目的である。
 人と神とが顔と顔を合わせるというときは、いかにその関係が親密であったとしても、神は造物主であり、被造物である人は、神とは根本的に異なっている。この差異があるかぎり、まだそこには神と人との階層的関係が残っている。エックハルトは、それを超えなければならないと考える。その関係性を超えて、表象不可能(像の彼方)・言表不可能(言葉の彼方)・思惟不可能(概念の彼方)なる空虚の中へ入れと言う。この空虚は、非顕現であり、一切の差異化に先立つ原初的な〈一〉性である。
 エックハルトは、しかしながら、人と神とが単純に同一だと言おうとしているのではない。ただ、神と人とに共通の〈一〉性を再び見出すために、諸々の被造物の造り主なる神とその被造物の一つである人という二元的な対立を超え出よと促すのである。この唯一なる〈一〉(einic Ein)は、魂の秘された根底であると同時に、顕現した神の根底でもある。この原初的な〈一〉性においてこそ、魂の根底と不可知な神とが融合する。この魂の根底とは、魂における非被造的なるもの(incréé)であるとエックハルトは主張する。
 この主張が、教皇勅書「主の畑において」(In agro dominico)の中で異端の嫌疑ありとされた第二十七命題に対応する。

Aliquid est in anima, quod est increatum et increabile ; si tota anima esset talis, esset increatum et inceabilis, et hoc est Intellectus.

魂のうちには、非被造的で被造不可能な何ものかがある。もし魂全体がそのようなものであれば、魂は非被造的で被造不可能であろう。それこそまさに知性である。

 エックハルトにおいて提示される魂が歩むべき途とは、このような徹底した内在性の途である。その限りでは、エックハルトにもまたアウグスティヌス的なテーゼが見出だせると言うことができる。しかし、エックハルトは、この内在性の途を独自の仕方で徹底化する。アウグスティヌスにとっては、回心こそが魂のその起源への回帰を可能にする内在性の途であった。ところが、エックハルトにおいては、アウグスティヌスにおいては回心が占めていた場所を「離脱」(abegescheidenheit)が占める。
 離脱によって、人は、御言葉が生まれるうる場所を魂のうちに空けることができる。これが「魂における神の現前」である。これを一言で表すラテン語起源のフランス語がある。 それが « inhabitation » である。ところが、この語のもともとの字義通りの意味は、「人が住んでいない状態」である。つまり、エックハルトの離脱が主題となる場面でこの一語が用いられるとき、それは、「魂を空にするとき、そこに神の御言葉が生まれる」ということを意味しているのである。
 エックハルトにおいて、この「空なる魂における神の現前」と「神のうちでの人の誕生」は表裏一体をなしている。そのかぎりにおいて、人は神化される。この人における神の誕生と神における人の誕生という二重の誕生が、エックハルトの神学的かつ神秘主義的思弁の核心をなしている。

 

 

 

 

 

 

 

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