内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十六)

2014-04-30 00:00:00 | 哲学

2. 2 〈肉〉の基本的的性格

2. 2. 1 〈可視性 visibilité〉(1)

 〈可視性〉は、見えないものと対立するものとしての見えるものだけがそれに属するのではない。ある「図」が描き出される「地」、立方体の隠れた面、ある物がその見えない側面とともにそこにおいて現れる奥行などもこの〈可視性〉に含まれる。そして、それらを見ている私もまた見えるものである以上、やはり〈可視性〉に帰属する。
 ある物の形がそれとして立ち現れるために不可欠なものとしての背景である「地」、つまり「図」をそれとして成り立たせるところの「地」が可視性に属するのは、それがその図と同じ資格で見えるものではないとしても、その地があってはじめて図が見えるものとなるという意味においてである。立方体の隠れた面が〈可視性〉に属するのは、その隠れた面が、今見えている面と同時に同じ資格で見えているとは言えないとしても、立方体がそれとして現れるためには、見えている面と「共存」しているか(VI, p. 184)、あるいはそれとは別の様式で同時に存在していなければならないという意味においてである。
 ここで、大森荘蔵がこのような知覚されえない面を「虚想」と名づけ、立ち現れ一元論の中で問題化していたことを思い合わせるのも、メルロ=ポンティの意想のよりよい理解のために無益ではないかもしれない。「知覚されえない背面の知覚的思いこそ、今現実に見えている机の姿を机の姿たらしめる、その意味でこの虚なる思いこそ現実を現実たらしめているものなのである」(「虚想の公認を求めて」『物と心』1976年所収参照)。
 以上の知覚的経験の事実が私たちに教えることは、〈可視性〉には時間性も含まれているということである。つまり、〈今〉見えているものは、〈すでに〉見えたものや〈まだ〉見えていないもの、〈これから〉見えるかもしれないものを常に伴うことではじめて、見えるものになっているということである。
 しかし、奥行に関しては、それを「地」や隠れた面と同列の事実として論じることはできない。奥行が〈可視性〉に属するのは、それらとは別の仕方であり、それだけでなく、奥行において、私たちは、メルロ=ポンティの現象学的存在論の核心に触れることになる。なぜなら、メルロ=ポンティにおいて、ある物の様々な見え方がそこにおいて展開され、その物の見え方がそれゆえに無尽蔵でありうるところの〈奥行〉は、それなしにはそもそも〈可視性〉が成り立たない、その基軸的次元だからである。〈奥行〉は、ある時ある視点からだけ見えないものなのではなく、すべての見えるものが見えるものとしてそこに現われるようにするところの〈見えないもの〉であるという意味において、けっして見えるものに変換されることのない「優れて隠されたものの次元」(« la dimension du caché par excellence », VI, p. 272)なのである。この〈奥行〉において、見えるものの一つが見るものとして分節化されるのであって、見えるものとは独立な見るものがまずあって、その視覚によって知覚世界に〈奥行〉が生じるのではない。
 以上のような諸要素・次元を含むものとしての〈可視性〉が単なる個々の可視的経験の事実の集合としての可視性に還元されうるものではないことは、もはや明らかであろう。〈可視性〉は、見ることにおける存在論的経験の全構造の第一性質とでも呼ぶべきものであり、五感のうちの一つである視覚の構造の性質ということに限定されるものでもない。なぜなら、〈可視性〉における見えるものと見るものとの円環構造は、私たちの全知覚経験に共通する基本構造でもあるからである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十五)

2014-04-29 00:00:00 | 哲学

2. 1 〈肉〉の根本的性格

 最初に、『見えるものと見えないもの』の中で繰り返し試みられる〈肉 chair〉の定義から、その根本的な性格を取り出してみよう。
 すぐにわかることは、〈肉〉は、同書におけるメルロ=ポンティの現象学的存在論にとって、その「すべてはそこからそこへ」を指し示す言葉だということである(VI, p. 184, 185, 193-194参照。現在同書の二つの優れた邦訳であるみすず書房版も法政大学出版局版も手元にないので、原書の頁数のみを示す。原文の引用が必要と判断した箇所については、原文とその私訳を示す)。メルロ=ポンティは、この言葉によって、他のいかなる哲学的概念にも同一化されえないもの、本性からしてそれそのものとして理解されるべきもの、これまでのどのような哲学においても自らの名を有つことがなかったところのものを指し示そうとしている(VI, p. 193)。〈肉〉は、私たちの現象世界の中で、他の何かの諸要素の組み合わせから理解されるような派生的なものではなく、それ自体によって考えられうる最も根本的なものを指す。それは、古代ギリシアの哲学者たちが〈存在〉の根本的な構成要素として「地・水・火・風」を語ったときに使われたような意味での、「〈存在〉のエレメント」(VI, p. 184)である。それは、さらに、知覚世界がそれによって自らの組成を発見するところの「生地」でもある。知覚世界におけるあらゆる現象を可能にするものとして、〈肉〉は、現象が現象として現れること、つまり「現象の現象性」( « la phénoménalité du phénomène », Marc Richir, Phénomènes, Temps et êtres. Ontologie et phénoménologie, Grenoble, Jérôme Millon, 1987, p. 78)の根本条件である。
 明日以降、〈肉〉というこの謎めいたとも形容されることがある言葉によってメルロ=ポンティが名指そうとしたもののいくつかの恒常的な基本的性質を、『見えるものと見えないもの』というメルロ=ポンティ最後の未刊の著作の記述から抽出していく。私たちは、それらを次の五つの性質 ―〈可視性 visibilité〉〈事実性 facticité〉〈可逆性 réversibilité〉〈自己回帰性 retour sur soi〉〈相互帰属性 inter-appartenance〉として提示する。これ以外にも付け加えるべき性質があるとも考えられるであろう。特に、〈交叉性 chiasme〉を他の諸性質よりも先に挙げるべきという考え方もある。しかし、むしろ〈交叉性〉がそれだけの重要性を持っているからこそ、他の諸性質と同列に扱うのではなく、本稿では、上に挙げた五つの性質のうちの後三者を問題にするそれぞれの場面において、その都度そこに含意されている性質としての〈交叉性〉を分析するという仕方でそれについての考察を深めていく。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十四)

2014-04-28 00:00:00 | 哲学

2 — 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中の歴史的身体(承前)

 西田哲学の思考の運動を、メルロ=ポンティの哲学的言語空間の中で展開させるという思考実験を行うにあたって、次の三つの作業仮説を立てる。(1)〈肉〉は、歴史的生命の世界を形成する〈素地〉である。(2)「垂直的あるいは野生の〈存在〉」(VI, p. 255)は、歴史的生命の世界の自己限定としてそれ自らに現れる。(3)知覚する身体 ― 〈見るもの-見えるもの〉〈触れるもの-触れられるもの〉〈感じるもの-感じられるもの〉である身体 ― は、行為的・受容的身体にほかならず、行為的直観の焦点である。一言にして言えば、〈肉〉は、行為的直観がそこにおいて実行される歴史的生命の世界の〈素地〉に与えられた名前であるという仮説を私たちは立てる、ということである。
 このような仮説に立って、私たちは、思考実験の第一階梯として、『見えるものと見えないもの』に展開されている〈肉〉の概念をめぐっての記述を辿り、その基本的な性格を取り出す。次いで、第二階梯として、『知覚の現象学』における知覚経験としての奥行の記述と『見えるものと見えないもの』における存在論的次元としての〈奥行〉の記述とを比較検討し、両者の間に見られる決定的な違いを特定する。
 ここで特に〈奥行〉に注目するのは、メルロ=ポンティにおいて、すべての存在論的問題は〈奥行〉というテーマと何らかの仕方で関係があるからである。あらゆる反省的思考に先立って、〈見る〉こと・〈触れる〉ことによって開かれる、「隠されたものの次元」としての奥行を含んだ地平においてこそ、メルロ=ポンティの現象学的存在論は展開されている。知覚世界の原初的な次元である奥行においてこそ、世界を織り成す〈肉〉はそれとして自らに対して現れる。この奥行という次元が、このような意味でいわば特権的な審級であるのは、そこにおいて、可能な種々の行為のシステムである私たちの行為的身体とその身体が住まう環境世界とによって形成される全体的な構成形態の基本構造が現れるからであり、それゆえ、その構成形態の現象学的記述によって自己身体の存在論的意味が顕にされるからである。
 以上のような〈奥行〉の存在論的意味を踏まえた上で、私たちは、第三階梯として、奥行の経験における〈肉〉と自己身体との関係から、知覚世界における自己身体の働きを記述する。
 これら三つの階梯を通じて、メルロ=ポンティが『見えるものと見えないもの』の中で示そうとした知覚世界における自己身体の働きが、最後期の西田哲学の中で歴史的生命の世界における行為的直観の担い手である行為的・受容的身体の働きに対応することが明らかにされるだろう。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十三)

2014-04-27 00:00:00 | 哲学

 

2 — 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中の歴史的身体

 私たちがここで試みようとしているのは、西田哲学の思考の運動を、西田固有の用語から解き放って、西洋哲学のある哲学的言語空間の中で展開させることができるかどうかという思考実験である。しかし、それは西田哲学の成果を西洋哲学の問題圏に回収しようという意図からではない。むしろその逆である。西田哲学のいくつかのエレメントを西洋哲学の思考回路の中に導入することで、それらのエレメントがその思考回路の中にどのような反応を引き起こすか見てみようというのが私たちの企図だからである。
 なぜ、メルロ=ポンティがこの実験の対象として選ばれたのか。思考形態の類似性や影響関係ということが問題であるのならば、ドイツ観念論の系譜に連なる哲学者たちをまずもって取り上げるべきであろう。しかし、私たちの意図は、類似性や親近性の論証それ自体にあるのではなく、哲学の根本問題を現在において問い直す新しい視角を見出すことにある。
 メルロ=ポンティが『見えるものと見えないもの』の中で提示する〈肉〉という概念は、知覚する身体と知覚される世界との間に結ばれた原初的で分かちがたい存在論的な関係を指示している。この概念は、したがって、客観主義的な思考によって知覚世界に押しつけられた理論的な枠組みの問い直し、現れることそのことの場としての知覚の領野から私たちを遠ざけてしまう説明的態度に対する批判を内含している。
 このような〈肉〉の存在論と西田哲学との間にどのような問題連関を見出すことができるだろうか。西田の場所の論理に限定して両者を見比べるかぎり、特にその論理が絶対無の自己限定によって特徴づけられる段階にとどまるかぎり、西田の立場は、存在を存在として考究する存在論とは根本的に対立し、したがって、メルロ=ポンティと西田との接点を見出すことは困難であるように見える。
 しかし、西田とメルロ=ポンティは、私たちが世界と間に有つ相互に内在的超越的な関係から独立した〈真理〉を拒否する点で一致する。とりわけ、「行為的直観」「歴史的身体」「歴史的生命の世界」等の根本概念を軸に展開される最後期の西田哲学の立場に身を置くとき、少なくともあるいくつかの重要な哲学的論点において、メルロ=ポンティの〈肉〉の現象学的存在論と、人間の経験全体に内在的な論理としての西田の歴史的生命の論理とを比較検討し、両者を重ね合わせて見ることが可能になると私たちは考える。
 『見えるものと見えないもの』『眼と精神』などの晩年の著作の中でメルロ=ポンティが試みていることは、西洋哲学の伝統の中では名前を与えられることのなかったものに言葉を与えることであった(« […] l’on sait qu’il n’y a pas de nom en philosophie traditionnelle pour désigner cela », Merleau-Ponty, Le visible et l’invisible, Paris, Gallimard, 1964, p. 183. 以下、同書からの引用箇所を示す場合は、同書を VI と略記する)。これらの著作の中で、メルロ=ポンティは、西洋哲学の伝統の中に自覚的に身を置きながら、その伝統が暗黙の内に前提するか、無関心のままにとどまるか、あるいはそれとして問題化することなかったものの探究へと向かっていったのである。この探究の指向性は、西田哲学のそれと、少なくともいくつかの問題場面で、重なり合うだろう。

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十二)

2014-04-26 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(4)

 本稿第四章の前半部を構成する「1— 行為的直観の世界における身体」の三つの節で、西田の身体論・道具論・技術論をここまで見てきた。それらをここ前半部の終わりにもう一度簡単にまとめ直し、メルロ=ポンティの現象学的存在論によって開かれる問題場面において西田の身体論を考察する後半部「2 ー 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中に映された歴史的身体」への橋渡しとしたい。
 私たちの身体が〈見るもの-見えるもの〉であるのは、それが同時に行為的・受容的であるかぎりにおいてである。この二重の両義性から、私たちの身体の経験における、〈受動性-能動性〉〈内部性-外部性〉〈感受性-創造性〉というそれぞれの二項間の弁証法的関係は理解されなくてはならない。
 私たちの行為的身体は、技術を介して、世界を自らの「自己身体」として現われさせる。この技術とは、行為的身体に対する対象を道具として使って物を作ることを身体に可能にする知である。しかし、まさにそれゆえに、私たちの制作的身体は、種々の道具の複雑なネットワークとして自らを形成する世界の道具となる。私たちの身体は、行為的直観の焦点として、自己形成的な世界の二重の意味での形成素である。つまり、世界を形成するものでありかつ世界において形成されるものである。
 歴史的世界において私たちの行為的身体が表現することは、世界が私たちの行為的身体において自らを表現することにほかならない。私たちの身体は、歴史的世界内存在の表現的身体であり、これは、歴史的に限定された所与の諸形態を介して世界に新しい一つの形を与えることができるということを意味している。この私たちの歴史的身体による贈与によって、世界は自らに新しい形を与えるのであり、世界はその内部において自己を更新していく。
 以上のように西田の歴史的生命の世界における身体論・道具論・技術論をまとめることができるとして、残された問題はなんであろか。それは、歴史的生命の世界における歴史的身体の現われ方をいかに記述するかという問題である。この問題を扱うには、生ける身体の所作・行為・行動に、それらの複雑さと創造性に適った仕方でアプローチしなくてはならない。
 しかし、西田自身の論述は、しばしば思弁的に過ぎ、問題の現象を記述するのに充分な術語体系を備えていない。生命において現実的に結合し統合されているものをそれとして区別するために適切な概念装置を持っていなければ、生命において形成されている要素間の結合関係について何も正確には知り得ないことは言うまでもない。しかし、互いに結びついている諸要素をただ概念的に解体・分離するだけでは、生ける全体として捉えようとしているものを、つまり、身体と世界との間の動的な諸関係の全体に迫ることはできない。
 世界は、それ自らに対して、私たちの歴史的身体において、いかに現れるのか。私たちの歴史的身体は、それ自らに対して、行為的直観の世界において、いかに現れるのか。歴史的身体は、自らがそこに住まう世界において何を表現するのか。歴史的身体と歴史的生命の世界との関係をめぐるこれらの問題にアプローチする一つの方法として、本章の後半部では、メルロ=ポンティの現象学的存在論を通じて、歴史的身体がその現勢態おいて現れる場面を捉えることを試みる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十一)

2014-04-25 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(3)

我々が歴史的身体的に働くといふことは、自己が歴史的世界の中に没入することであるが、而もそれが表現的世界の自己限定たるかぎり、我々が行為する、働くと云ひ得るのである(全集第八巻四七頁)。

 この引用の前半のテーゼ ―「私たちが歴史的身体として働くことは、自己が歴史的世界に没入することである」― に対しては、例えば、次のような問いが向けられうるだろう。私たちの行動は、歴史的世界それ自身の自己限定の結果としての意味しかなく、歴史的世界という自己限定的ですべてを呑み込んでしまう場所だけが世界に到来する万有の原因なのか。私たちの個別的自己は、歴史的に限定された身体として現実化される以上、歴史的世界に対して独立し自律的で自由であることは本質的に不可能であるのか。知識の獲得に関しては、個別的身体の身分は、その身体がたとえ行為の主体であったとしても、獲得された知識に対して副次的な価値しか持たないのか。なぜなら、一旦確立された知識は、非人称的であり、その他の〈見る-働く〉身体との間で共有可能であるからこそ、知識たりうるのであり、その意味で、その知識が最初に獲得された身体とは独立した対象となるからである。知識は、それとして確立されることによって、ある時ある場所に生きる個別的な歴史的身体から切り離される。このような知識の確立は、ただそれを所有しているだけの私たちの身体からその個別性と歴史性を奪い、同じ知識を持った他の身体と交換可能な、一つの一般的身体に変容させてしまうのではないか。
 以上の問いに見られるような身体の副次性や一般性を認めるとすれば、それでもなお、私たちそれぞれが個別的な歴史的身体として行為し働くと言うことができるのだろうか。できるとすれば、それはどのような意味においてなのか。西田はこのような問に対して次のように答える。それは、歴史的身体として私たちが行為するということが「表現的世界の自己限定」であるという意味においてである。この西田の答えを、論文「論理と生命」の他の箇所を参照しつつ、発展させてみよう。表現作用は、一個の個別的な〈見る-働く〉身体によって生きられなくてはならない。表現は、個別的に自己表現する能力を持った私たちの歴史的身体のそれぞれがそれを経験するかぎりにおいて、実現可能である。世界を受容し世界に受容されることで働き、形を受け入れ形を与え得るものとして世界を見ることによって、言い換えれば、世界をその内部において受け入れ、その世界にある形をその内部で与えることによって、私たちの自己は、その身体において自らを表現する。そのことは、取りも直さず、世界が私たちの身体を通じて自らを表現することなのである。もし自らの内部に独立的な自己表現的・自己創造的要素を含んでいなければ、世界は歴史的に一度限り限定され、ある表象の体系として完全に対象化され、そこに在るのは、もやは表現的でも創造的でもない不活性な世界でしかない。私たちの表現的・創造的な身体的自己において自己限定するかぎりにおいて、歴史的世界は、歴史的生命の世界になる。

我々の身体的自己は歴史的世界に於ての創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである(全集同巻同頁)。

 客観的に一度限定された世界においては、私たちの身体は、種々の対象の只中に投企された一つの対象に過ぎず、事実的・非人称的・置換可能な身体にとどまる。しかし、歴史的世界においては、私たちの身体は、表現するものとなり、個別的な置換不可能な歴史的身体として生きられる。この歴史的身体が世界にある一つの形を与え、表現がそこで実現される場所、世界の意味が創造される場所にになる。

世界に没入するといふことは、身体がなくなるといふことではない、単に一般的となることではない。却つてそれが深くなることである、寧ろ身体の底に徹底することである(全集同巻同頁)。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十)

2014-04-24 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(2)

 このように行為的身体を世界内の可動的観点として見るとき、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的身体の実存様態の二重の性格が自ずと明確になってくる。行為的直観の焦点として、私たちの行為的身体は、まずもって受容性と行動性とが同時に現実化される〈場〉である。それが客観的認識の主体となるのは、〈見るもの-見えるもの〉である身体がまず示す実践的関心から自らを独立させる思考の手続きを経て以後のことである。それに先立って、認識作用は、私たちの行為的身体が実行する、世界にある形を与えかつそれを世界の中で受け入れるという、贈与と受容という二重の性格を持った原初的経験の中に必然的に内含されている。
 行為的直観における原初的認識のこの二重の性格は、実践的関心から離れた理論的認識に優位性を置く理性主義に対する批判の根拠となるだけではなく、実践的認識と理論的認識とが根本的には分離不可能であるという帰結に私たちを導く。このような立場に立つとき、理論的認識は、〈見る〉ことと〈働く〉こととが不可分な行為的直観の経験を出発点として、組織的な抽象化の手続きを経て獲得された客観的認識のシステムであると定義することができる。
 行為的直観の世界で或る一つの認識が成立するとき、私たちの行為的身体は、そこに自ら住まう世界において、どのような身分を持ち、どのような機能を果たしているのか。行為的身体は、行為的直観の焦点として、世界が自らの内で自らに与える認識の生誕地である。世界は、私たちの〈見る-働く〉身体によって、世界それ自身の内部において、自ら自身を認識する。私たちの〈見る-働く〉身体は、世界を構成する種々の形を与えるものでありかつ受け入れるものであり、これら種々の形は、時間・空間的に限定された形として、歴史的世界を現実的に構成している。歴史的世界を構成する他の諸々の形との関係において、限定しかつ限定される形として、私たちの行為的身体は、歴史的世界によって歴史的に限定された仕方で行動する。この世界の只中にあって、私たちの行為的身体は、自らの行動によって世界に一つの形を与えることによって、世界を内側から限定している。

我々は行為的直観の現実に於て、即ち歴史的現在に於て、作業的要素として身体を有つ。現実は一般の特殊として我々を限定すると共に、我々は何処までも自己自身を限定する個物として現実を限定する。それが我々の行為である。歴史的世界の作業的要素として我々の行為はいつも身体的である(全集第八巻九五-九六頁)。

 この意味において、西田は、私たちの身体を「歴史的身体」と呼ぶ。行為的直観の現実によって、私たちの身体は、歴史的に限定されたある一定の空間において作業実行可能な要素となる。行為的直観が私たちの〈見る-働く〉身体にとって原初的現実であり、私たちの身体の価値・機能は本質的に歴史において限定されているという意味において、私たちの身体は、まさに歴史的身体なのである。歴史的身体として働くということは、歴史的世界の中で現実的に行動するということである。私たちの行為的身体は、歴史的世界そのものから生まれて来たものであり、そこにおいてのみ行為的身体でありうる。したがって、私たちの行為的身体がそこにおいて生きている歴史的世界を非歴史的に超越することは、定義上ありえない。私たちの〈見る-働く〉自己は、身体として限定されており、歴史的世界の中にしか在りえない。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(九)

2014-04-23 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(1)

 論文「論理と生命」は、最後期西田哲学の諸論文の中でも最も重要な内容を持った論文の一つである。私たちは、ここでもこの論文に主に依拠しつつ、「行為的直観」という西田哲学の中でも最も独創性に富んだ概念の一つによって開かれるパースペクティヴの中で、知と身体との関係という問題を考察してみよう。
 まず、同論文のこの問題についての論旨を、西田のテキストからの引用を混じえずに、私たちの側で術語を統一しつつ、整合的な仕方で抽出することを試みる。
 行為的直観という概念は、つねに二重の契機と双方向的な二重の観点から規定される。私たちの身体的自己の観点からは、行為的直観は、世界における行為的身体の実存様態として定義できる。人間の身体がそこにおいて行動する世界の観点からは、行為的直観は、人間の身体を取り巻く自己形成的な世界の原初的な形成様態として定義される。このように身体の実存契機と世界の構成契機という二重の契機を持った行為的直観は、歴史的生命の世界の初源の知でありかつ原初的な力能であり、それゆえ、世界の中で私たちの行為的身体によって獲得されるあらゆる知の源泉に他ならない。このことは、また、世界の形成要素としての制作的身体と自己限定的場所としての歴史的生命の世界との間に生れ、保持される現実的関係にしたがって、知識は形成されるということを意味してもいる。
 私たちの行為的身体は、自らを取り巻く世界に対して働きかける有限な存在であるかぎりにおいて、その世界を見る。世界内のある観点から見る存在であるかぎりにおいて、世界に対して働きかける。これを世界の側から見れば、世界は、〈見るもの-見えるもの〉である私たちの身体において、自らを自らの内で受容するということである。世界は、私たちの行為的かつ受容的身体を通じて、自らに自らをある一定の形において現われさせる。それが西田のいう「世界の自己形成」である。世界の自己受容契機と自己形成契機とは、いずれも、行為的直観を実行する私たちの行為的身体の根本的な構成契機として不可分である。行為的直観が開く領野において、私たちの身体は、世界の原初的な知の生誕地となる。私たちの行為的身体は、実践的課題が問題となる実践知の源であるばかりでなく、普遍的理性の問題が問われる理論知の源でもある。
 世界の初源の知は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的である私たちの身体において、生れる。その知は、身体が世界から一つの形を受け入れ、まさにそのことによって世界に一つの形を与えることから、身体において、生れる。行為的直観の二つの根本的構成契機である〈見る〉と〈働く〉とは、この初源の知の生誕において協働する。したがって、行為的直観の能動的側面と受動的側面との間の優位性という問題はそこには発生しない。世界の初源の知は、行為的身体の身体的行動によって生れる。この行為的身体こそが、働きつつ見ることからなる原初的な生命を具現化することによって、世界における初源の知の生誕地となる。
 私たちの身体は、実践の世界の中で働くものとして、すべてのものを見る。この世界では、諸対象は何らかの仕方で一定の用途のための道具として私たちに現れる。この日常的に私たちが経験する事実は何を意味しているのか。私たちの身体は、自らに対してそのように現れる諸対象の只中に投げ込まれていること、その諸対象からなる構成形態の中で行動することができることを意味している。しかし、それだけではない。私たちの身体は、それらの諸対象がそのようなものとして在る場所にそれを見ているまさにそのことによって、それらの諸対象を、それらの只中にあって、受け入れているということを意味してもいる。行為的身体は、世界に対して超越的な固定的観点として認識するではなく、世界内在的動的・可変的観点として働くことによって認識する。











 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(八)

2014-04-22 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(4)

 道具を媒介とした身体と世界との弁証法的関係の問題に立ち戻ろう。西田の身体論と道具論とが重なり合う問題領域の特徴がよく表れている論文「論理と生命」の一段落の読解を通じて、この問題を今一度考えてみよう。まず、その段落を一切省略なしに全部引用する。

我々は道具を以て物を作る。我々が物を道具として有つと云ふ時、我々の身体をも道具として有つ。我々の身体は外から見られるものである。作業的要素と作業的要素との結合から又作業的要素を生ずる。而して新なる作業的要素も亦その世界に於てあるものであり、作業的に働くものである。此の如く考へられた世界に於て、我々が働くものとして、最初の出立点として考へた身体的要素といふものも、亦この世界に於ての作業的要素の結合として造られたものである時、この世界は自己自身を限定する世界である、即ち客観的世界である。それは自己自身を形成する世界である。その不変なる形が、その世界に於ての法則と考へられるものである。身体的要素といふものは、此の如き群論的世界に於ての同一元素の如きものと考へることができる。かゝる一般者の自己限定の世界が演繹法的論理の世界である。身体的なるものが、その世界に含まれるのである。個物的なるものが一般的なるものに含まれるのである。我々が物を道具として有つといふ時、我々は何処までも世界を道具として有つと云ふことができる。併し世界が自己の身体となるといふことは自己がなくなることである。そこでは却つて自己が世界の自己限定として限定せられるのである(全集第八巻四五頁)。

 西田は、ここで、いわゆる不変の客観的世界になぜ創造性がもたらされうるのかという問題を、世界の論理的構造の内側から解き明かそうと試みている。この問題は、しかも、必然的に、主体性は世界のどこにどのようにして生れるのかという問題を包含している。このような文脈の中で、世界における身体的要素の機能がこの段落で問われている。注目すべきなのは、西田は、この問題に対して、人間の身体的機能から物としての道具との関係を介して世界における人間身体の機能を理解しようとする、いわば人間中心主義的な方向とは、まったく逆方向の探究姿勢を取っていることである。〈身体〉の固有性を世界の論理的構造から導き出そうとしているのである。つまり、世界を構成する諸要素のうちの一つの要素として、それら諸要素との関係において、身体性を規定しようとしているのである。
 身体が他の諸要素と一義的に決定可能な不変の関係性しか持たない次元が、いわゆる客観的世界に対応する。この次元にとどまるかぎり、世界は一定の法則に完全に支配され、そこに創造性はありえない。そこでは、当然のことだが、世界に新たな特異性・非連続性をもたらしうるものとしての〈身体〉は、そのようなものとしてまったく機能し得ない。しかし、それは身体性の欠如あるいは不在を意味するとは考えないところに西田哲学の一つの独創性がある。身体的要素は、いわば世界制作の「零度」として、その他のすべての諸要素をそのそれぞれの在所においてそのように在らしめていると西田は考えるのである。この意味において、西田は、身体的要素というものは、群論的世界の同一元素(単位元)ようなものだと言っているのだ。世界を構成するすべての要素に、身体性はいわば〈零〉として内含されているのであり、このことが世界の諸要素間の関係性の可能性の条件をなしている。〈身体〉は、いわば世界に遍在する微分された無数の場所であり、そのそれぞれが場所としての十全な働きを〈今〉〈ここで〉なしている、在るものをそのようなものとして〈そこに〉在らしめている。
 このように〈身体〉を規定するとき、それに対して、〈道具〉はどう規定されうるのか。それは、それまでの世界の諸要素間の関係性を変えうるものとしての可変項と規定することができる。ある道具の誕生は、世界の可変性の一つの新たな顕現であり、その顕現は、単位元としての世界の身体性に基礎づけられている。ある道具が世界に導入されると、世界の諸要素間の構成形態が何らかの仕方で変化を蒙る。その道具の使用者としての身体にも変化が生じる。しかし、そのような道具を介しての身体と世界の諸要素間の関係の変化をこの世界で可能にしているのは、世界の分節化の可能性の条件としての世界の身体性なのである。
 道具を介しての身体と世界の諸事物との関係は、身体が道具を使って物に働きかけるという一方向的な関係に還元されうるものではなく、身体がその使う道具によって、その道具を使うことそのことを通じて、いわば道具的連関の世界の一要素として働くことになるという弁証法的関係であり、このような関係は、単位元としての世界の身体性を可能性の条件としてはじめて成立する。

 この節の締め括りとして、ここまで論じてきた世界の身体性に基づいて、人間の行為的身体の固有性を要約しておこう。人間の行為的身体は、受容的かつ能動的、対象的かつ主体的な存在であり、歴史的生命の世界の初源的な知と原初的な力能との焦点である。人間の身体が初発の意志として自らを能動的であると感じることができるのは、その同じ身体が、歴史的にその都度ある仕方で限定された道具の世界の中で行動するように条件づけられているという意味で、受容的であるかぎりにおいてである。人間の身体が世界を包括する意識の主体でありうるのは、その同じ身体が、歴史的世界の中のある場所ある時代にある仕方で、限定された対象であるかぎりにおいてである。人間の身体が何かを形作ろうという意志を有つことができるのは、その同じ身体が事物の世界に投げ込まれているかぎりにおいてである。行為的直観は、行為的身体とそれを取り巻く諸事物との間の弁証法的な関係からなっているのであり、この関係は自己形成的な歴史的生命の世界において把握されるべきものである。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(七)

2014-04-21 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(3)

 歴史的世界の中での意識の有り方を、最後期の西田哲学の論脈において、今一度明確にしておこう。
 世界は、自らの内において自ら自身を見る。このテーゼに見られる世界の自己関係性は、自覚の基本構造である「自己が自己において自己を見る」という関係性とまさに対応する。西田がこの世界の自己関係性を「世界の自覚」と呼ぶ所以である。この世界の内在的自己反省性は、その世界のうちにおいて働く、私たちの個別的身体的自己において現実化される。西田はこの事態を次のように表現する。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」(全集第九巻五二八頁)。
 最後期の西田哲学は、世界の自覚と私たちの自己の自覚との「絶対矛盾的同一」性という原初的・根本的経験というパースペクティヴにおいて、意識を世界内に到来した出来事として捉えている。意識がそのようなものとして世界内存在である私たちの身体的自己において把握されるのは、世界が私たちの自己にとって身体を通じて連関する全体として現われ、技術を介していわば私たちの自己の最も拡張された延長となるときであり、それは同時に、世界の側から見れば、私たちの自己が世界の只中にあってその世界の身体的延長として感じられるときでもある。それゆえに、世界に現れるすべてのことは、私たちの自己にとって、世界の内側から見られたものとして現われる。言い換えれば、世界に現れるすべてのことは、それ自身に対してつねに同一的であり、私たちにまったく無関係な即自存在としてではなく、自らが自らに対して現れるという作用の内容として現れるということである。この意味において、意識とは、自らを自らに対してある限定された形で現われさせるという世界自身の自己関係作用の顕現形態であると言うことができる。
 上述のような意識の規定に基づくとき、現象学的態度と西田哲学の態度との決定的違いは、それぞれの態度が世界との関係において意識に与える位置の違いにあることがよくわかる。現象学的態度にあっては、自己に対して自己自身を現われさせる作用は、超越的自我の作用として記述され、この作用の構成契機として現れるものは、そのかぎりにおいて、それとして記述される。したがって、世界は、超越論的自我に他ならない純粋意識に対して現れるかぎりにおいて現れる。それに対して、西田哲学では、自己に対して自己自身を現われさせるこの作用は、世界の自覚という世界の只中での事柄として把握され、それが取りも直さず私たちの行為的・身体的自己の自覚であるがゆえに、世界の裡での場所的転回として記述される。したがって、意識は、世界内に生きる私たちの身体的自己において、自らが自らの裡で自らに到来した世界の経験として記述される。最後期の西田哲学において、意識は、このような仕方で、歴史的生命の論理にしたがって、世界内に場所的に位置づけられたのである。