内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

あの花の散らぬ工夫が有ならば ― 芭蕉の人情句から

2018-04-30 22:44:54 | 読游摘録

 ヴァカンス明けの今日からまた改革反対派学生たちによる大学の建物の封鎖が一部で再開され(あっ、「封鎖再開」って矛盾していて、ちょっと滑稽ですね)、学内では混乱が続いている。それに関連して様々な対応が私も求められたが、それらすべては自宅からメールで行なった。キャンパスがどのような状態かは同僚たちからの報告によっていた。
 明日5月1日は、労働記念日(La fête du travail)で国民の祝日。したがって、一日「休戦」。しかし、その翌日2日以降どうなるか、予断を許さない。
 今朝から自宅でできる大学関係の仕事を処理しつつ、随時入ってくるメールには即時に対応していたが、ときどき息抜きとして読んでいたのが宮脇真彦『芭蕉の人情句 付句の世界』(角川選書、2008年)。世評の高い前著『芭蕉の方法 連句というコミュニケーション』(角川選書、2002年)に比べて世間の評価は今ひとつなようだが、私は面白く読んでいる。
 今日の記事のタイトルに掲げた句「あの花の散らぬ工夫が有ならば」は、元禄七年春「五人扶持」歌仙の中の野坡の前句「猫可愛がる人ぞ恋しき」に対する芭蕉の付句。
 「見事に咲いた花を散らせずにおく工夫がもしあるならば、いつまでも花の美しさを堪能できるのにと落花をことらさに惜しむのは、猫を可愛がっている女人も美しいままでいてほしいと、恋しい思いを募らせているからだ。」(『芭蕉の人情句』110-111頁)
 これはこの付合の即自的な注解。この後、連句ならではの連想的評釈が展開されていく。それを読むことで、広がっていく詩的世界に游ぶのは愉しい。
 『源氏物語』若菜の巻で、柏木が女三の宮への恋慕を募らせたのは、猫が御簾をずらしたのがきっかけだった。柏木はその後女三の宮を偲んでその猫を慈しむ。宮脇は、この付合がその面影ではないかという。
 その当否は措く。というか、差し当たり、私にとって、それはどうでもよい。私の連想は、丸谷才一『輝く日の宮』の次の一節に飛んだ。

あの方面の学者たちは実證が好きだし、それに執着するあまりもつと大事なことを忘れがちである。そして想像力を働かせることを毛嫌ひし、仮説を立てることを厭がる。あれは明治のころ日本にはいつて来た文学研究法が、西洋十九世紀に全盛の自然科学の方法を文学に当てはめるものだつたのに由来する。その態度を保存し、奨励した結果、かうなつた。をかしな学風が支配的になつてしまひました。

 これは小説の中の言説であるから、現実の日本の学会の現状に照らし合わせて云々するのも大人げないであろうし、第一私は日本の学会のことをほとんど知らない。
 それはともかく、想像力と仮説なしの学問なんて、そもそもありうるのでしょうか。












春のあはれ、『源氏』以後の感性

2018-04-29 18:00:27 | 読游摘録

 「人生とはそういうものだ」、「あいつはもののわからんやつだ」など、現代日本語でもごく普通に使われる表現の中の「もの」の意味、つまり「きまり」とか「道理」という意味は、古典語の「もの」にまで遡る。
 「もの」は、平安女流文学においては、軽い接頭辞ではないこと、単なる添え物ではないこと、ただ漠然と「なんとなく」という意味ではないこと。これらのことは、和辻哲郎が「「もののあはれ」について」(初出1922年、『日本精神史研究』所収)で夙に指摘しており、唐木順三が『無常』(1964年)の中でやはり問題にし、大野晋が「モノとは何か」(初出2001年、『語学と文学の間』所収)でそれを『源氏物語』の本文に即して実証している。
 大野論文の「もの」についての所説は、『古典基礎語の世界』(角川ソフィア文庫、2012年)にほぼそのまま再録されているので、同書から「ものあはれなり」という形容動詞についての分析を摘録する。
 「モノは、長い文脈を受けて、それを運命と見る、動かしがたい成り行きと見るということを表す言葉なのだ」(176頁)と述べた上で、モノには今一つの用法があるという。「それはモノが動かしがたい成り行きとして展開していく季節のありようを指す場合である」(176-177頁)。
 その典型的な例として「ものあはれなり」という形容動詞の例を『源氏物語』から5つ挙げている。それらの例は、そのほとんど秋から冬にかけてのことである。いずれも、「人間には動かしがたい、季節の成り行きがあわれと眺められる」ということを意味している。そこから「秋のあはれ」という成語も成立した(『源氏物語』に三例)。
 ところが、「春のあはれ」という表現は、『源氏物語』には一例もない。昨日の記事で取り上げた『徒然草』第十九段に見られるような、春のあはれに対する感性は、いつごろ、どのような文脈で生まれたのであろうか。『徒然草』以前にその例を見出すことができるのだろうか。












春のけしきのもののあはれ、あるいは「心浮き立たせる」無常について

2018-04-28 17:28:54 | 随想

 色とりどりに咲き匂う花々に囲まれると、人は自ずと微笑み、浮き立つような気持ちになるものなのであろうか。
 昨日、ブリュッセルにあるラーケン王宮温室内の花尽くしとその巨大な建物の周りの広大な庭に咲き乱れる花々を観ながら、それらを愛でる人たちの多くもまた花咲くように笑い交わしながら庭園と温室を巡るのを見ていてそんなことを思った。
 と同時に、『徒然草』第十九段の一節を思い出した。この段は、四季の移り変わりを主題としている。そのはじめの方に「もののあはれ」という言葉が用いられている。

「物のあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今ひときは心も浮きたつ物は、春のけしきにこそあめれ。(岩波新日本古典文学大系39『方丈記 徒然草』)

 この後、その春のけしきの例がいくつか挙げられていくのだが、それらの例からして、「心も浮きたつ物」という表現における「心浮きたつ」は、現代日本語でのこの表現の語感とは異なっていることがわかる。あるいは、兼好独自の鋭敏な感性がそこに込められていると見るべきなのかも知れない。
 新日本古典文学大系本の久保田淳による脚注には、「そわそわして心も落ち着かなくなるものは」と意を通し、「一種の不安感を伴っており、陽気に浮かれるという現代語の語感とはいささか異なるか」と注している。確かに、そう読んでこそ、この文の冒頭の「もののあはれ」とも照応する。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)の「浮く」の項を見てみよう。
 「物が、地表や底から離れて空中や水面に漂う意。[中略]ウクは不安定な状態をいうので、人事については、身が定まらないこと、不安であること、話が不確かであること、態度が浮ついていることなどをいったが、心のあり方については、中世以降、ウクが浮き立つ意をもつに至り、ウカル(浮かる)に近づき、陽気な状態にある意を表すようになった。」
 心「浮き立つ」状態は、本来、けっして陽性の気分一色ではなかったわけである。むしろ、心が一所に落ち着かず、地に足がちゃんと着いていないような、いつもそわそわした状態のことであり、そのような状態にあってこそ、秋に感じられる深沈とした淋しみにおいてよりも、「もののあはれ」はより深く心に感じられる。そう兼好は言いたかったのではないであろうか。











ブリュッセル自由大学での講義を終えて―ストラスブールへの帰りのTGVの中で

2018-04-27 18:01:44 | 雑感

 今、ブリュッセルからストラスブールに帰るTGVの中でこの記事を書いています。
 一昨日・昨日とブリュッセル自由大学での哲学部修士課程の学生たちを対象とした東洋哲学講座の一環としての講義を行ってきました。2日間それぞれ3時間の計6時間の講義でした。
 日本のことはほとんど何も知らない相手に対して、第1日目は、仏教渡来以前に信仰されていたであろう古代日本における「カミ」について話しました。「枕」として、ラフカディオ・ハーンの名編「杵築―日本最古の神社」(『日本の面影』)の中の古代日本人の「カミ」信仰の特異性の直観的把握を紹介し、この文章の終わりの方に出てくる「神の道」という言葉への注意を促し、これが今日の講義のテーマであることを示しました。
 そして、主に大野晋『日本人の神』(河出文庫)の第一・二章に依拠しながら、1時間半ほど話し、その後、学生たちからの質問を40分ほど受けました。出席者は20名ほどだったでしょうか。大体において集中して聴いてくれていたし、熱心にノートを取っていた学生も少なからずいたし、質疑応答も結構活発でしたから、なんとか役割は果たせたのではないかと思います。
 昨日は、普段講義を行う日ではないといこともあったのでしょうか、出席者は4名でした。しかし、これはこれで、私の方は気楽な談話のように話せるし、聴く方もその分リラックスして聴けるから、別の雰囲気を楽しむことができて悪くありませんでした。
 本居宣長の「もののあはれ」論を緒に、「もの」とは何かという話へと展開し、この「もの」についての大野晋よる定義、和辻哲郎の宣長批判における「もの」解釈、唐木順三『無常』での「もの」分析等を紹介し、この「もの」と「こと」との対比を基軸とした世界像、「こと」のもつ意味の三重性―事・言・異、廣松渉の事的世界観などに言及しました。司会進行役の講義責任者が途中で的確な質問やコメントを合いの手のように入れてくれたので、私の方もそれに応じて、縦横に気分良く話すことができました。講義ノートなしで話し、掛け合いがうまくいったことで、学生たちの方も緊張せずに、より自由に質問できたようです。後の祭りですが、丸山圭三郎についても言及しておけばよかったとこの記事を書きながらちょっと後悔しています。
 その日の後半は、私が先月した学会発表と講演の内容を、文学作品を対象あるいは手掛かりとして実行可能な哲学的考察の方法論という観点から紹介しました。メルロー=ポンティをよく読んでいるらしい学生からの質問にはこちらが啓発されるところもあり、また昔取った杵柄ですから、『眼と精神』や『見えるものと見えないもの』の所説が自ずと思い出されたりして、懐かしくもありました。
 講義の後は、司会進行をしてくれた、大森荘蔵についての博士論文を準備中のベルギー人の若き友人と、田辺元研究で博士号を取得し、現在ブリュッセル自由大学のポスドクのポストにあるもう一人の若き日本人の友人との三人で、ベルギー料理レストランで歓談いたしました。これからの研究活動についての刺激に満ちたアイディアがそれこそ次から次へと話題になり、彼らの充溢する活力、柔軟性に富んだ発想、企画を迅速に実現にまで導く実行力には、もはやたそがれゆくだけの老兵たる私はただ感嘆するばかり、おかげでとても愉快な時間を過ごさせてもらいました。
 今日は、宿泊先のマダムのお勧めで、一年でこの花の季節しか一般公開されないというラーケン王宮温室を見学し、花の写真を沢山撮ってきました。それらの写真は、このブログでは紹介しませんが、Facebook の方に順次アップしていきますので、ご興味のある方はご覧になってくださいね。













日記のあっさりとした記述の背後に隠された宣長の深い心情の推理(下)

2018-04-26 07:46:52 | 読游摘録

 大野晋は、一昨日の拙ブログの記事で引用した宣長の日記の中のいわゆる「松坂の一夜」についての短い記事で用いられている一語、「対面」に注目する。
 僥倖に恵まれて、深く尊敬する大先生に会うことができたというのに、なぜ、宣長は、「謁す」という敬意を込めた動詞((漢文の師であった堀景山をその自宅に訪れたときの記録では使っている)ではなく、あたかも対等な者同士の面会であったかのように、「対面す」という動詞を使って、その日の出来事を記録したのか。
 この問いに対する答えを探す大野の推理は実に鋭い。この「対面」のとき、話題は二つあっただろうと大野は推定する。一つは、もちろん、『古事記』について。この出会いにおいて、宣長が真淵から本格的な『古事記』研究を勧められたことは間違いない。では、もう一つの話題とは何であったのか。少し長くなるが、大野の推理を段落まるごと引用しよう。

 しかしもう一つの別の話題があったと思うのです。それは『源氏物語』とはどういう物語か、その本質は何なのだ、という話です。『源氏物語』はもののあはれを書いたものだ。もののあはれとは、日本における春夏秋冬の季節の移り行きに感じられる非常に微妙な味わいである。また、もののあはれのなかで最も重要なものは何であるかといえば、男と女との間の恋の感情、愛情である。その実相を追求して形象化したのが『源氏物語』である。『源氏物語』は、なにも世間で生きるための実用性のある智恵を教えるものでもなければ、役に立つ教訓をたれようとするものでもない。男と女の恋情を人間の根柢的に重要な事実と認め、男と女とがそれを求めて動くさまを書いたものだ。そう読むのがあの書物の読み方なのだということを、本居宣長は『紫文要領』のなかに書いている。そしてそれは、宣長が誰かから学び習ったことではなく、自分自身の発見であり、自分の存在をかけた意見だと、その奥書に書いている。これは先に申し上げた通りです。ですから、そのことを宣長は賀茂真淵に語ったに違いない。(『語学と文学の間』、前掲書26頁)

 実際に宣長が真淵にそう語ったかどうかを証明することは不可能である。しかし、それはここでの問題ではない。そのような実証性よりも大切だと私に思われることは、このような推論によってはじめて浮かび上がってくる「読み筋」があるということである。その読み筋には、大野晋という稀代の学究の長年の研鑽とそれを通じて研ぎ澄まされた学問的直観とが賭けられている。
 弛みない研鑽に裏打ちされた直観に己の学問的人生を賭けること。この点において、宣長と大野晋とは同じ学問的血脈に連なっている。
 もう少し大野の推論について行こう。
 真淵は「松坂の一夜」の五年前に『源氏物語新釈』という注釈を書き上げている。その内容は旧来の解釈を踏襲するばかりで、何ら新味のないものであった。つまり、真淵は『源氏物語』を共感をもって深く理解することはなかったのである。
 だとすれば、宣長の過激とも言える新解釈を聴いて、真淵はそれにどう反応しただろうか。もし『紫文要領』に荒削りに提示されている源氏物語論を宣長が真淵に熱を込めて語ったとして、それに対する真淵の反応はどうであったろうか。
 それはおそらく宣長を失望させるような反応であったろう。宣長は、自分の渾身の源氏解釈が偉大なる先達の共感を得られないのを目の当たりにして失望したことであろう。
 この失望が日記に於いて「謁す」ではなく「対面す」を選ばせ、『紫文要領』の激越な跋文を宣長に書かせたのではないか。こう大野は推理する。
 では、宣長は、どうして自分の源氏解釈にそこまで自信を持つことができたのか。
 この問いに対して、大野はどのような答えを出すのか。その答えをお知りになりたい方は、是非ご自身で大野論文をお読みいただきたい。












日記のあっさりとした記述の背後に隠された宣長の深い心情の推理(中)

2018-04-25 03:47:02 | 読游摘録

 偉大なる先達賀茂真淵との「松坂の一夜」に描出されたような感動的な面会をしたはずの宣長は、それからわずか二週間後の宝暦13年6月7日に次のような文章を書いている。

 右『紫文要領』上下二巻は、年ごろ丸が心に思ひよりて、この物語をくり返し心を潜めて読みつつ考へ出せるところにして、まつたく師伝の赴きにあらず。また諸抄の説と雲泥の相違なり。見む人あやしむことなかれ。よくよく心をつけて物語の本意を味ひ、この草子と引き合せ考へて、丸がいふところの是非を定むべし。必ず人をもて言を棄つることなかれ。かつまた文章・書きざまはなはだみだりなり。草稿なるゆゑにかへりみざるゆゑなり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を棄つることなからんことを仰ぐ。(新潮古典集成『本居宣長集』の本文による)

 これは『紫文要領』の跋文である。現代語で意を通せば、以下のようになろうか。

 この源氏物語論は、数年来私が繰り返し『源氏物語』読解に沈潜した結果として打ち出された考えであって、師から教わったものではなく、既存の諸説ともまったく異なる。そのことを怪しく思わないでいただきたい。よくよく注意して『源氏物語』そのものを味わい、この拙論と引き比べて、その是非を判断してほしい。私が無名の若輩だからというだけで拙論を否定しないでほしい。確かに、文章整わず、乱雑な書きぶりであることは認める。それはまだこれが草稿だからで、そういうことには構わなかったからだ。いずれ清書するからそれまでご辛抱いただきたい。ただ、文章の乱雑を理由に拙論を棄却することなきよう伏して乞う。

 この異様とも見える激越な調子はどこから来るのであろうか。いったい誰を念頭において書かれた文章なのであろうか。
 大野晋は、この激越な調子の理由を次のように説明する。

 『紫文要領』を貫く根柢の考えは、恋は人間にとって重要なことである。その恋の種々相をこまかく的確に書いている点で『源氏物語』は極めて重要な作品なのだ、というところにあるのです。今から見ればそんな意見は当り前と思われるかもしれません。しかし、当時の社会では、色恋などということは、一人前の男子である武士や学者が取り上げるべきことではなかった。男と女の色恋沙汰を一生の大事と考えるなどは、道にはずれたおかしな奴のすることだとされていたのです。恋は人生、人間の大事なことなのだと明確に断言することは、当時としては異例のことに属します。だから宣長は「人をもて言を捨つる事なかれ」と激しい調子で言っているのです。(『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年、23-24頁。)

 確かに、当時としては思想的に過激な内容をもった『紫文要領』を公にすることには勇気が必要だったであろう。だとすれば、もっと文章を整え、いらぬ誤解を招かぬよう慎重を期してもよかったのではないか。実際、『紫文要領』の改訂増補である『源氏物語玉の小櫛』を33年後の寛政8年に完成させ、そのさらに3年後に出版している。
 しかし、だからこそ問わねばならないことは、まだ三十代前半の若き無名の学徒に上掲の「危険な」跋文を書かせた情熱はどこから来ているのか、何に裏づけられているのか、ということである。言い換えれば、なぜ若き宣長は世間の常識に反した独自の主張を敢えて危険を冒してまでしなければならなかったのか、ということである。












日記のあっさりとした記述の背後に隠された宣長の深い心情の推理(上)

2018-04-24 16:20:57 | 読游摘録

 昨日の記事では、尋常小学校国語読本に戦前二十数年間収載されていた「松坂の一夜」という文章とその元になっている佐佐木信綱の文章を紹介した。それいずれも真淵と宣長の出会いを美しく描いた文章であった。
 ところが、当の宣長の日記の中のこの「歴史的な」出会いの日である宝暦13(1763)年5月25日の記述は、ひどくあっさりしているのである。
 まず、「曇天、嶺松院の会也」と、歌会に行ったことを記した後、「岡部衛士当所一宿、始めて対面す」(岡部衛士は真淵の本名)とあり、「当所一宿」の脇に「新上屋」と対面した宿屋の名前が小さく記されている。これだけである。
 もっとも、ただ天候だけを記しただけの日も多いから、それらに比べれば、書いてあるほうだとも言える。それにしても、「松坂の一夜」として後年これだけ有名になった一期一会の出来事が当の本人の日記ではそっけないとも言えそうな記述にとどまっているのはなぜだろうか。
 この日記の記述の背後に隠され、名編「松坂の一夜」からも読み取りがたい宣長の深い心情について、綿密かつ執拗な資料探索を重ねつつ見事な推理を展開しているのが大野晋の「語学と文学の間 ―本居宣長の場合―」(『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年)である。初出は今から40年前の『図書』1978年6月号。その内容は、簡略化された形で、『日本語と私』(河出文庫、2015年)の「Ⅴ 両国橋から」中の「言葉に執して生きた人々(1)」にも繰り返されている。
 そのスリリングな推理過程は、それをここに中途半端な仕方で紹介すると、それこそ推理小説のネタバレみたいに残念な結果に終わること必定なので、ご興味を持たれた方は是非ご自身で同論文お読みになられたし。岩波現代文庫版巻末の井上ひさしによる「語学者と文学者の間 ―解説に代えて―」の言葉を借りれば、「わずかの代金で、そのご相伴にあずかることができるとは、同時代に生まれ合わせた冥加である」(299頁)。
 『語学と文学の間』は、現在版元品切れのようだが、古本市場によく出回っているようで、比較的安価に入手できる。また、それに先立って『日本語と世界』(講談社学術文庫、1989年)にも同論文は収録されており、こちらも品切れであるが、古本で安く手に入る。
 明日明後日の記事では、まだお読みでない方々にとってネタバレにならないように気をつけながら、この大野論文を読んで私が特に関心を持った点にいささか触れてみたい。













『尋常小学国語読本』中の名編「松坂の一夜」

2018-04-23 23:59:59 | 読游摘録

 本居宣長が『古事記』研究に35年の歳月をかけることになる機縁が宝暦13(1763)年5月25日にたまたま松坂に投宿した賀茂真淵とのたった一度の対面にあることはよく知られている。戦前は特に、「松坂の一夜」という文章が尋常小学国語読本に載っていたこともあり、この二人の一期一会の話は広く知られていた。
 この文章は、本居宣長記念館のサイトに発行年を異にした6つの原資料に基づいて掲載されている(こちらを御覧ください)。この教科書版の元になる文章を書いたのは佐佐木信綱である。その原文も同記念館のサイトで読むことができる。まず、佐佐木信綱の原文の方から、その最後の数段落を引用する。

 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門(かど)のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍(たが)をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。
 附言、余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当夜宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。

 最後の段落から、この文章は、佐佐木信綱自身が松坂で幼少期に古老から聞いた談話に宣長の日記や『玉勝間』の数節をあざなって書いた創作だとわかる。全文でも2000字ほどの掌篇だが、名文だと思う。
 この文章を佐々木自身かあるいは他の誰かが小学国語読本用にやさしく書き直した文章が「松坂の一夜」として戦前の国民に広く知られることになる。上掲引用文の最初の段落に対応する部分だけ引用する。

夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを我が家へ向つた。

 小学生用であるから当然のことではあるが、随分やさしくリライトされている。それでも宣長が真淵に対面したときの様子やその直後の感激と興奮冷めやらぬ気分の高揚はよく伝わってくる文章であることにかわりはない。
 この国語読本の編纂に携わっていた国文学者高木市之助は、「この種の教材でおそらく一番よくできているのは、白表紙本では、巻11に載った「松坂の一夜」ではないかと思います。真淵・宣長師弟の美しい出会いを描いたこの教材を懐しく思い出す人たちも多いはずです」(『【尋常小学】国語読本』高木市之助述、深萱和男録、中公新書、67頁)と証言している。













学識ある無知への果てしなき道のり

2018-04-22 17:03:01 | 哲学

 今から十年前、2008年7月14日に国語学者大野晋は享年87歳で亡くなった。
 その前年、死の1年5ヶ月前の2月27日、大野は日本経団連会館で行われた記者会見に臨んでいた。東京書籍と時事通信社が共同で「日本語検定」という検定を始めることになり、大野はその監修役を引き受け、それを発表するための会見だった。
 当時すでに病篤く入退院を繰り返していたうえに、ふとしたはずみで背骨も痛め、補助具なしには歩くこともできず、まっすぐ座ることもままならない体になっていたという(川村二郎『孤高 国語学者大野晋の生涯』集英社e文庫、2016年)。
 それでもこの役を引き受けたのは、日本語についてどうしても言っておきたいことがあったからである。この会見で、大野は、
「私は日本語をいくらか勉強したので、少しわかるようになりました」
と言ってから、
「日本語が話せて、日本語の読み書きができる。その程度で言葉がわかるとは思わないでください。もっと本気で、日本語に対してください」
と言って、会見を終えたという(同書)。
 これが、公式の場で大野が発した最後の言葉となった。
 日本語を外国語として習っている人たちに向けられた言葉ではない。日本語を母語としている日本人全員に向かって発せられている。しかし、日本語を教える立場にある者たちは、とりわけ肝に銘じるべき言葉だろう。
 川村二郎は、もう一つ忘れられない大野最晩年の言葉を挙げてから、評伝の「遺言」と題されたエピローグを閉じている。

「学問というのはね、深めれば深めるほど、自分にわかることがいかに少ないかが、わかってくるものなんです」

 これを読んで、ニコラウス・クザーヌスの主著『学識ある無知について De docta ignorantia』第一部第一章の次の一節を私は思い起こさずにはいられなかった。

それゆえ、われわれの持っている欲望、物事を知ろうとする欲望が無意味でないとすれば、われわれは自分の無知を知ろうと望んでいることになる。そして、このような状態に完全に到達できたならば、われわれは学識ある無知に到達したのである。なぜなら、最も探究心の旺盛な人間にとっても、自己自身に内在する無知そのものにおいて最も学識ある者になるということが、学識上最も完全だからである。自らを無知なる者として知ることが篤ければ篤いほど、人はいよいよ学識ある者となるであろう。(『学識ある無知について』山田桂三訳、平凡社ライブラリー、1994年、18頁)

 この学識ある無知は、人に教えることはできないし、人から教わることもできない。果てしなき探究の途上において各々自覚するほかはない。











落語とロックン・ロール

2018-04-21 23:59:59 | 雑感

 何らかの理由で精神的に疲労を覚えるとき、あるいは、なにか気持ちがむしゃくしゃするとき、そういう状態を引きずらないための「特効薬」が私には二つあります。どちらも短時間で即効性があります。
 一つは、落語を聴くことです。ここ数ヶ月間はちょっとご無沙汰していたのですが、数週間前に近世文学史の講義で江戸時代の話芸について話したとき、当然落語の話をしました。そのとき、実例として、学生たちに現代の落語家の話を、YouTube にそれこそ無数にある動画から選んでいくつか聴かせたのがきっかけとなって、以来、一日に一話、聴いています。
 私はとにかく古今亭志ん朝が大好きで、ここのところも彼の名人芸ばかりを聴いています。人情噺を偏愛しています。「文七元結」はもう何度聴いたか知れません。「芝浜」も好きです。それに、「唐茄子屋政談」「ねずみ」「井戸の茶碗」「富久」「浜野矩随」などなど。聴いていて涙を禁じ得ぬこともしばしばです。でも、聴いた後、心が洗われたような気持ちになります。
 もう一つは、1970年代のロックン・ロールを聴くことです。その中でも最もよく聴くのがレッド・ツェッペリンです。さっと気分を切り替えるためにしばしば聴くのは、1971年に発売された第四アルバムの第二曲 « Rock and Roll »。わずか3分40秒ほどの曲ですが、これを聴くと、たちどころに気分がすっきりします。
 どちらの場合も、聴いた後、「よっしゃぁー、明日からまた頑張ってみよか」という気持ちにしてくれます。
 落語とロックン・ロール、どちらも永遠に不滅であります。