内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(六)

2014-03-26 00:00:00 | 哲学

 まず、行為的直観を主題としているか、それについてのまとまった言及が見られるいくつかのテクストから引き出しうるその基本的規定を、次の五点にまとめて提示することから始めよう。
 (一)「行為的直観の世界は、無限の世界である。行為的直観とは無限の過程でなければならない。」行為的直観は、私たちの行為する身体においてたえず始まりつづける、つねに始まりとして働きつづける始まりである。それは、私たちの世界において、そこに諸事物をそれとして現出させる世界の自己否定作用として、つねに現実的に作用している。本質的内在化作用として、行為的直観は、その能動性と受動性の両契機によって、私たち行為する身体にとっての諸事物の無関係な外在性を否定し、諸事物をそれら自身の十全な形において自らに現れさせる。行為的直観は、世界に帰属する私たちの行為する身体によって担われているゆえに、世界の只中にあって世界自身の自己否定作用として現実化されるが、それゆえにこそ、世界において諸事物がまさにあるがままの諸事物として現れる。この行為的直観が、「現実が、自己自身の中から自己自身を超え自己自身を構成し行く、自己構成の過程」をもたらすのである。
 (二)行為的直観は、主体にも対象にも従属しない。むしろ、行為的直観によって開かれる世界において、主体と対象とがそれとして分節化される。行為的直観によって直接把握された諸事物は、世界のうちに行為的直観の形そのものを描き出す。諸事物は、行為的直観がそこにおいて現実化される構成形態を表現している。行為的直観の領野においては、いかに外的現実が視覚に対して現れるのかという問いは適切な問いではない。なぜなら、行為的直観の領野においては、何らかの主体との関係における外部と内部との区別を前提として導入することはできないからである。この区別は、行為的直観においてもたらされる原初的経験についての反省的抽象化の手続きによってのみ獲得されるものなのである。
 (三)行為的直観は、その根本において世界の原初的出来事である。行為的直観がまさにそれとして現実に行われるその初源の次元においては、つまり、それに対して事後的なすべての認識が定義上排除されるその最初の契機においては、ただ世界の一つの経験があるだけである。世界のあらゆる認識の起源にある行為的直観は、意識に対して与えられるのでもなく、意識の権能の支配下におかれているのでもなく、それ自身からしか、その固有の本質からしか説明されえないものである。発生的順序にしたがって言えば、行為的直観が世界の統一契機としての時間性とその差異化の契機としての空間性を発生させるということから、意識の生成が説明されるのである。
 (四)行為的直観は、知覚世界に帰属しない。まったく逆に、知覚が行為的直観の世界の一部をなす。行為的直観は、歴史的世界の原初的経験であり、それが世界の認識と自己の認識を可能にする。この経験は、世界がその内部そのものに自己を否定する要素を生むということからなっている。この世界の自己否定が行為的直観として現実に行われ、その起動点は私たちの行為する身体にある。世界における世界自身の出来事として、行為的直観は、「世界の自己否定の肯定として現れ来るものたるに過ぎない」。
 (五)行為的直観は、「極めて現実的な知識の立場を云うのである。すべての経験的知識の基となるものを云うのである。」しかしながら、「行為的直観そのままが知識だと云うのではない。」行為的直観は、あらゆる認識のいわゆる出発点でもなければ、その直接の基礎なのでもない。つまり、行為的直観は、現在の認識が展開されるにしたがって、その現在の到達点から離れてしまうような過去に与えられた出発点ではない。認識の展開を通じて、行為的直観は、つねに世界の直接把握として働いているのである。それは、何らかの理論がそこから構成される認識の基礎でもない。最初の自明性の直接経験として、行為的直観は、そこから推論が推し進められるような仮説的命題を自らに与える作用にけっして還元されるものではない。