内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(一)

2014-03-21 03:48:00 | 哲学

 今日から第二章に入る。この章のタイトルは、「西田哲学の方法論 ― 哲学の方法としての「自覚」と諸科学の方法としての「行為的直観」 ―」である。

 西田哲学を全体として方法的に首尾一貫した思考のシステムとして捉えることはきわめて困難であるように見える。それは、西田がつねにその思索を、その都度直観的に把握された一つの考えを起点として、そのいわば自発的な展開過程を追うことによって、発展深化させていくからである。西田の著作群のほとんどは、そのような思索過程の現場記録であり、それゆえ、それらの中にそれとして組織立った仕方で記述された彼自身の哲学的方法論を見出すことはできない。
 しかし、私たちはここで、マルシャル・ゲルーの、「おのおのの哲学は、明示的に、あるいは暗黙のうちに、その方法序説を内包している」(« Chaque philosophie comporte expressément ou implicitement son discours de la méthode. », 「コレージュ・ド・フランス開講講義」)というテーゼにあえて従って、西田のテクストを読んでみよう。
 実際、西田は、いくつかのテクストの中できわめて明示的に哲学の方法および諸科学とりわけ自然科学の方法についての彼の考えを表明している。特に、その最晩年に自らの哲学の方法について何度か述べていることは、それらが一つの方法論として十分に展開されているとは言い難いにしても、彼が到達した最終的立場から導き出された西田哲学の方法論の核心と見なすことができ、きわめて注目に値する。
 西田が哲学の方法をそれとして彼なりの仕方で厳密に規定しようとするのは、それをその他の科学の諸方法と区別し、それらとの関係を明確にしようという意図からであり、その試みは、西田哲学独自の二つの概念、最後期の西田哲学の二つの機軸概念となる「自覚」と「行為的直観」との区別と関係を基点としてなされている。
哲学の方法とその他の諸科学の方法とがこの二つの概念に基づいて西田によってどのように規定されているかを立ち入って検討する前に、その規定をまず簡略に図式的に示しておこう。
 まず、理由の順序に従うとき、哲学の方法は科学の諸方法に先立つ。というのは、前者は直接「創造的自己」に基づいているのに対して、後者は「ポイエーシス的自己」によって実行され、ポイエーシス的自己は創造的自己に基づいているからである。哲学の方法は厳密な意味での自覚によって遂行されるのに対して、科学の諸方法は行為的直観に基づいている。
 ところが、事実の順序に従うとき、自己はまず行為的直観の経験からポイエーシス的自己として自覚し、そしてこのポイエーシス的自己が今度は創造的自己として自覚し、これこそが厳密な意味での自覚ということになる。
 このように、「自覚」と「行為的直観」との区別と関係に基づいて、西田による哲学の方法の規定を科学の諸方法の規定との対比において見ることは、西田における哲学の方法をそれとしてあたうかぎり截然と取り出すことを可能にするばかりでなく、しばしばその区別と関係が充分に明確にされないままに論じられがちな「自覚」と「行為的直観」にそれぞれ厳密な規定を与えることを可能にする。