内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(三)

2014-03-06 00:00:00 | 哲学

1.2.2 ベルクソンにおける持続の純粋性と西田における〈今〉の純粋性との差異
 西田は、『善の研究』執筆前後の時期にベルクソンの哲学への深い共感を表明しており、とりわけその哲学的方法論と「純粋持続」論とを高く評価していた。両者共に当時の実証万能主義的傾向に抗して、経験の只中において全体性と無限への展望を開く一種の新しい形而上学をそれぞれの仕方で創出しようとしていた。両者共に理論的思弁的地平を超えた、同時に実証的かつ創造的な形而上学的経験へとそれぞれの哲学を徹底化させていった。こうした共通する哲学的姿勢が経験の最初の純粋性への回帰、直観的に把握可能なもっとも現実的な現実への回帰へと両者の哲学的探究を方向づけている。
 しかし、ベルクソンの純粋持続の純粋性と西田の純粋経験の純粋性との間に両者の哲学の差異もまたはっきりと現れている。ベルクソンによれば、純粋持続の純粋性は私たちの内部にしか見出されず、内的持続の純粋性を損なわざるをえない空間性に根本的に対立する 。純粋持続の純粋性とは「内的諸現象」の純粋性である。これに対して西田の純粋経験は持続と延長、内部と外部といった対立に先立っており、あらゆる対立を潜在的に含んでいる。この意味で、純粋経験は、後に顕在化するいかなる対立も排除せずにそれらを可能態として自らのうちに含み持っている。ベルクソンに見られるような本来的自己と非本来的自己との区別もまた西田の純粋経験においては適用されえない。なぜなら、自己が純粋経験を捉えるのではなく、純粋経験そのものが自らを捉えることから〈自己〉が生まれて来ると西田の純粋経験論は考えるからである。言い換えれば、純粋経験の直接把握は、純粋経験そのもの以外、何も前提としない。
 ベルクソンの純粋持続の〈現在〉と西田の純粋経験の〈今〉との差異にも一言触れておこう。ベルクソンの持続は、それがすべての過去を含みながらつねに未来へと向かって進んでいくという意味において絶えず現在にあるのに対して、西田の純粋経験においてはそれがそれとして自らに経験される瞬間としての〈今〉そのものに力点が置かれている。純粋経験の初源の純粋性は現在の直接性において捉えられるかぎりにおいて自らが自らにそれとして現れる。純粋経験は各瞬間に新たにされることによってその純粋性をけっして失うことがない。「此点より見れば精神の根柢には常に不変的或者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。時間の経過とは此発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである、此中心点がいつでも『今』である。」ベルクソンにおいては絶えず更新されていく時間の持続性がその純粋性にほかならないのに対して、西田においては現在から現在へと移り行くその都度の〈今〉の唯一性が純粋性として経験されるのである。