内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十五)

2014-06-30 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(6)

 ミッシェル・アンリによれば、昨日の記事の最後に示した西田の問い ― 意識がまさに働いているときに、意識作用をそれとして直接的に把握することはいかにして可能なのか ― に対する答えは、フッサール現象学の中には見出すことはできない。かくして、フッサール現象学の中に、解き難い難問へと現象学を導く危機が発生する。現象性の原理そのものが現象性を逃れるとすれば、現象性そのものの可能性にも疑問符が打たれざるを得なくなる。それゆえ、フッサールは、意識の最終審級を構成する自我に匿名性あるいは非人称性を与えざるを得なかった。この点において、フッサールが取った方向と西田のそれとがはっきりと別れる。西田は、超越論的自我の彼方に「場所的自己」を求める方向へと舵を取るからである(この点については、本稿第一章 2.1.2 自覚の基本構造の第三項 ―「自己に於て」参照)。
 他方、ミッシェル・アンリは、純粋な根源的内在性を主張する。そこでは、主体は距離なしに主体に現前する。最も深い内在性は、距離なく己自身に捧げられているという無窮の感受の場所である。そこでのみフッサール現象学のアポリアから逃れることができるとアンリは考える。それに対して、西田は、そのようなアンリ的な立場に近づくのではなく、むしろ次のようにアンリを批判したことであろう。アンリは、内と外、内在と超越、意識と世界、情感と表象、主体とその客体化による歪曲された投影、これらの二項間に断絶を導入し、この断絶を絶対的で疑い得ないものとして前提している、と。なぜなら、西田の「場所的自己」は、まさにこのような絶対化された断絶を超克する試みだからである。アンリのような断絶の絶対化は、絶対的内在性と純粋な外在性との関係という問題をまったく解決不可能にしてしまうことを西田はよく理解していたのである。絶対的内在性における距離なき自己現前に生命の絶対的価値を与えることによって、アンリは、世界の現われを〈生命〉の自己贈与・自己限定・自己形成として考えることを頑なまでに拒否する。しかし、西田はアンリにこう問うであろう。真実在として探究しなければならないのは、自己の現前と世界の現われを同時に可能にしているものなのではないのか、と。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十四)

2014-06-29 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(5)

 しかしながら、意識は志向性であるという現象学にとっての根本的なテーゼを忘れるわけにはいかない。志向性を有ったものとして、意識は、己を外へと投企する運動にほかならない。もし意識の「実体」というものを考えるとすれば、それは、この外への到来に尽きるのであって、それが現象性を発生させるのである。この〈外への到来〉において、あるいは、〈距離を置くこと〉において、何かを現われさせること、それが見るということである。見るということは、〈見ること〉の前へと置かれ、見られるものに対して、距離を置くことに他ならない。現象学の対象は、このようにして前に置かれ、見えるものとなったものと定義される。〈現われること〉とは、ここでは、対象が現われることであり、それは二重の意味においてである。まず、現われるものが対象であるという意味において。そして、現れるものが対象である以上、ここで問題となる現われ方は、その対象に固有で、その対象がそれとして現われる現われ方であるという意味において。この現われ方が、私たちにとって見えるものとなりうるすべてのものの可視性を生じさせる〈距離を置くこと〉に他ならないのである。
 以上のように志向性を理解するとき、次のような一連の問いを立てなくてはならなくなる。すべてのものを見えるものとする志向性そのものは、いかにして己自身に顕にされるのか。それはそのための新たな志向性を要請するのか。もしそうであるとすれば、現象学は無限背進に陥らないのか。あるいは、志向性そのものには、〈現れるもの〉とは別の開示のされ方があるのであろうか。このような一連の問いが西田によって実質的に問われたのは、西田が自覚の概念を精錬していく過程で次のような問いを自らに発した時である。意識がまさに働いているときに、意識作用をそれとして直接的に把握することはいかにして可能なのか。













生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十三)

2014-06-28 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(4)

 これらの問いに対して、西田ならば、現象性についての旧来の誤った理解に対するミッシェル・アンリによる批判を踏まえた上で、どのように答えるであろうか。西田によって厳密に規定された、哲学の方法としての自覚と諸科学の方法の基礎としての行為的直観との区別は、アンリが言うところの純粋な現れることそのことと世界の現れとの間に生じがちな混同を明確に排除することを可能にする(本稿第二章3. 2 「自覚と行為的直観との方法論的差異」参照)。己の内部に無限の形を自己贈与する自己形成的な世界を直接把握するのが行為的直観であるのに対して、自覚は、己自身を直接的に把握することに他ならなず、自覚においてこそ、自己は自己に「現れることの己自身への原初的な現われ」として現れる。このようにして、西田は、自身に固有な言語空間において、アンリと同じほど注意深く且つ入念に、自己が自己に現れることという純粋な事実を捉えているのである。
 しかしながら、アンリと西田とのこのような親近性にもかかわらず、伝統的な現象性理解を乗り越えようとする両者の試みをまさに真っ向から対立させる乖離点を忘れるわけにはいかない。アンリにおいては、自己への純粋な現われと世界の現われとは根本的に異なった二つの次元にそれぞれ属し、ただ前者のみが「世界の現出に先立って生命が己自身へと到達する、より深い次元」(Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 7)に同定され、後者は、「それ自身で産出することができない」(ibid., p. 130)、定義上「主体的生命の本源的な自己顕現」(Rudolf Bernet, La vie du sujet. Recherches sur l’interprétation de Husserl dans la phénoménologie, PUF, 1994, p. 326)とは無縁な表象へと還元されてしまう。ところが、西田は、自覚と行為的直観との弁証法的な関係を確立することによって、自己形成的な歴史的生命の世界において行為的直観によって自覚が直接覚知される場所を特定している(この点については、本稿第二章 3. 1 「歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚」参照)。西田は、おそらく次のようにアンリを批判することであろう。「ミッシェル・アンリは、この自己顕現を世界の諸事物の顕現よりも本源的なものと見なし、いわば顕現の本質そのものを成すと見なしている点において誤っている」(R. Bernet, op. cit., p. 327)。
 この決定的とも言える西田とアンリとの乖離は、どこから来るのか。それは、両者それぞれによって自己身体に与えられた存在論的身分の間の差異から来る。アンリにおいては、身体それ自身には、純粋な現われの現象性に対しても世界の現われに対しても、無力なものという副次的な地位しか与えられていないが、西田においては、自己身体は、行為的・受容的身体として、歴史的生命の世界における自覚と行為的直観との担い手というきわめて重要な地位を与えられている。この歴史的生命の世界における自己身体の場所という問題には、自己身体の内的空間という問題がどこで根本的な問題として問われるかを精確に示した後に、また立ち戻る。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十二)

2014-06-27 06:45:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(3)

 現象学的探究を方向づけているもう一つの根本的テーゼは、〈現われること〉は〈存在〉より本質的だということである。つまり、現れるかぎりにおいて、ある物は在ることができる、ということである。もっと端的な言い方をすれば、「現れるだけ、在る」(« Autant d’apparaître, autant d’être », M. Henry, Incarnation, op. cit., p. 41)。この意味での現象学の存在論に対する優位性は、ミッシェル・アンリにおいて極限まで徹底化されるのだが、それは次のような仕方でである。現れることが己自身においてまさに現れることとして現れるかぎりにおいて、何ものかが、それが何であれ、現れることができるのであり、私たちに対して己を顕にすることができる。「現れることの己自身への原初的な現われ」(« l’originel apparaître à soi de l’apparaître », M. Henry, Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 31)が、世界の一切の現われに先立つ。
 しかし、これだけではまだ現象学の最も根本的な前提が十分に明らかにされたとは言えない。「現れるだけ、在る」とは、どういうことなのか。純粋に「現れる」ことそのことが己自身に現れるとは、いったいどういう次元でのことであり、いかにしてそれとして把握されうるのか。現象性がそれとして現象する純粋に現象学的なものとは、そもそもどのようなものなのか。これらの問に対して十分に明確な解答が与えられないかぎり、私たちは、純粋な現象性ということについて、容易に誤った方向へと導かれてしまう。とりわけ、世界の諸事物の知覚をモデルとして現象性を理解しようとするとき、世界において〈現れるもの〉と世界が〈現れること〉とに私たちの目は奪われ、その世界とはまったく独立にそれとしてそれ自身において成り立っている〈現れることそのこと〉は、それら世界の現われによって私たちから隠蔽されてしまう。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十一)

2014-06-26 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(2)

 現象学の固有性は、現象学自身が己に課した対象から己自身を理解することである。その他の諸科学がそれぞれ特定の現象、例えば、物理的、化学的、生物学的、歴史的、法的、社会的、経済的などの現象を研究対象とするのに対して、現象学は、ある現象が現象であることを可能にするところのものを、つまり、純粋な現象性そのものをその対象とする。このような対象についての現象学とその他の諸科学との本質的な違いがそれとして理解されるとき、次のような区別が必然的に現象学に課される。それは、その特定の内容において見られた現象とその現象の現象性そのものとの区別である。言い換えれば、〈現れるもの〉と〈現れること〉そのこととの区別、様々であり得る現われの内容と純粋な〈現れる〉という作用そのものとの区別である。
 この区別は、ハイデガーの『存在と時間』においては、覆いを取り除かれて顕にされたものという意味での真理と、真理の最も根源的な現象であるところのその覆いが取り除かれることそのこととの区別として表れている(Sein und Zeit, §44, c)Die Seinsart der Wahrheit und die Wahrheitsvoraussertzung)。同様な主題は、西田においても見出だせる。それは、西田が、自己形成的な歴史的現実の世界の只中で直接的に感受される疑い得ない事実において、己自身へと己自らを現われさせた真の現実を問題とするときである(この点については、本稿の第一章2. 2. 1 「デカルト再考」と第二章「1-真実在の定義から導かれる哲学の方法」とを参照されたい)。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十)

2014-06-25 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(1)

 「生命」は、ミッシェル・アンリの哲学の根本語の一つである。アンリは、例えば、次のように生命を定義する。「生命は、己自身を感受するものであり、己が感受するものすべて、己を触発するものすべて、己が己自身において自らを触発するという前提条件の下においてのみ、己を触発するものすべてである」(« La vie est ce qui s’éprouve soi-même et tout ce qu’elle éprouve, tout ce qui l’affecte, ne l’affecte que sous cette condition préalable qu’elle s’affecte elle-même en soi », Généalogie de la psychanalyse, PUF, 1985, p. 97. 同書には、邦訳『精神分析の系譜 ― 失われた始源』法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、1993年があるが、手元にないので、同書からの引用はすべて私訳。その他のアンリの著作からの引用もすべて私訳である )。生命は、本質的に、「己自身を感じる」(« se sentir soi-même », Essence de la manifestation, PUF, 1963, p. 578. 邦訳『現出の本質』上・下、法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、2005年)ということのうちにある。最初の著作から最後の著作まで、つまり、アンリの思想の中核におて現動つつある本質がまさに生命と呼ばれていた1963年の『現出の本質』から、キリスト教のほとんど神秘主義的擁護論とも見なされた方向へと自らの生命の哲学を徹底化していった、生前最後の出版である2000年の Incarnation. Une philosophie de la chair (Seuil, 2000. 邦訳『受肉 ― 「肉」の哲学』法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、2007年)まで、アンリのすべての思索は、次のようなただ一つの直観 ― 主体性の本質は生命であり、生命は己の享受と受苦において己自身を感受する ― から発出している。この意味で、ミッシェル・アンリの哲学は、まさに、一つの生命の哲学であると言うことができる。
 アンリの生命の哲学は、実質的には、一つの生命の現象学として展開されている。この現象学は、生命の本質を原初的な現われの本質として捉え、その生命がまさに有るところでそれを捉えようとする。それはどこで可能なのか。ありのままのこの私たちにおいてである。この現象学が自らに課すのは、自ずと己に現れるものをその最も内奥の初元の可能性において捉えることである。
 一般に、現代哲学史においては、アンリの徹底した生命の現象学もまた、フッサール現象学を淵源とし、ハイデガーやマックス・シェーラーなどによって展開された現象学の系譜に連なると言うことができるが、アンリ自身はフッサールやハイデガーに対して、その不徹底・錯誤・逸脱等を、厳しく批判する。そこで、私たちは、以下において、アンリの生命の現象学がいかなる点においてこの系譜を継承し、いかなる点においてそこから離れていくかを見ていく。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十九)

2014-06-24 00:00:00 | 哲学

3 ― 自己触発的生命から自己形成的生命へ

 私たちは、ここまで、生命論を軸にして西田哲学をフランス哲学の鏡の中に様々な角度から映し出すことを試みてきたが、このような試みの最終段階として、西田とミッシェル・アンリとの対質を行う。
 前章までですでに、私たちは、ミッシェル・アンリに明示的にあるいは示唆的に何度か言及してきたが、それは、主に、西田の自覚概念を現象学の根本問題との関係で位置づけるためであり(第一章第二節)、また、西田における内的生命の問題に一つの照明を与えるためであった(本稿第三章)。それらの言及は、無論、この二人の哲学者の探究姿勢の根柢に親近性があると認めてのことであった。西田哲学の展開・発展・深化の過程を、生命論を中心につぶさに辿ってきた私たちは、この二人の哲学者の間のどこに親近性が見出されるかだけではなく、何よりも、両者の決定的な乖離点はどこにあるのかを、今や精確に表現できるところまで来ている。
 〈生命〉に関してミッシェル・アンリが主張するテーゼは、西田哲学の最も完成された形であると私たちが考える歴史的生命の論理に対して突きつけられた根本的な問いかけであると見なすことができると私たちは考える。私たちは本節で、生命の本質を「自己触発」に見るアンリから発されうるであろう問いかけに対して、西田が歴史的生命の論理の立場からいかに応えうるかを見ていく。その作業を通じて、歴史的生命の論理に、いくつかの点において、より厳密な表現を与え、そうすることによって、西田自身によって探究された領野を超えてこの論理が展開・発展・深化させられるであろう方途を見出すことを試みる。
 以下において、私たちは、まず、ミッシェル・アンリの生命の哲学のいくつかの根本的テーゼを提示し、そのテーゼから西田の歴史的生命の論理に対して向けられるであろう問いを引き出す。次に、翻って、最終的な西田哲学の立場から引き出され得るアンリの哲学への批判的応答を提示する。そして、最終的に、西田によってもアンリによっても解決を与えられることなく終わった根本問題を浮かび上がらせる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十八)

2014-06-23 00:00:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(8)

 西田の方法とラヴェッソンの方法との相補的な関係の中に、種を集団的レベルで形成された一つの習慣として捉える可能性を見出すことができると私たちは考える。この可能性は西田自身よっては展開されることはなかった。しかし、ラヴェッソンの習慣論の立場から種を考えるとき、「自由の自然への回帰、或はむしろ、自然的自発性の、自由の領域への侵入を表している」「〈習慣〉の歴史」において、「自然の最後の根柢と反省的自由の最高の点」との間に形成された集団的レベルでの習慣の一つとして種を捉えることが可能になり、それによって、西田の生命論が陥った理論的困難を克服する途が開かれると私たちは考える(上記三つの「」内の表現は、すべてラヴェッソン『習慣論』(岩波文庫、野田又夫訳)からの引用だが、一部改変してある。原文は前掲書の p. 158)。
 ここで言われるラヴェッソン的意味での「自然」とは、ドミニック・ジャニコーによれば、次のように定義される。

自然は、そのとき、現実の充溢性、つまり、一般的というのではなく、優れた意味においての、存在(être)を意味している。自然は、知解に属するものでもなく、受動的なものでもない。自然は、悟性を逃れる。なぜなら、悟性は、非連続的な仕方で、現実の枠組みしか捉えず、したがって、自然をその輪郭において把握するだけだからである。自然は、受動的ではない。なぜなら、自然は、私たちの意志によって外から限定されないからである。私たちは、ここで、自然の最も重要な性格を発見する。それは、自然が私たちの意志を逃れるのは、自然それ自体が自発性だからである、ということである。

La nature désigne alors la plénitude de la réalité, l’être, non plus en général, mais par excellence. Elle est à la fois non intellectuelle et non passive. Elle échappe à l’entendement, parce qu’il ne saisit, de manière discontinue, que les cadres de la réalité, donc seulement la nature en ses contours. Elle n’est pas passive, parce qu’elle n’est pas déterminée de l’extérieur par notre volonté. Nous découvrons ici le caractère le plus important de la nature : si elle échappe à notre volonté, c’est qu’elle est en elle-même spontanéité » (Dominique Janicaud, op.cit., p. 45).

 ここで、自然が人間の意志を逃れるということは、しかし、意志と自然とは截然と分離されるということを意味しているのではなく、寧ろ逆に、〈自然〉の普遍的統一性の中への意志の領域の存在論的内含ということを意味している。この普遍的な〈自然〉は、己の裡に三つの存在様態を内含している。その三つの様態とは、「ありたい」(vouloir être)、「あらねばならぬ」(devoir être)、「ありうる」(pouvoir être)であり、それらの様態は、それぞれそれとして判別されうるが、相互排他的範疇ではなく、寧ろ互いの間の相互転換可能性を有っている。この相互転換の可能性の条件がまさに素質(disposition)としての習慣なのである。
 このようなパースペクティヴに立って〈自然〉を見るとき、種は、実体的なものでもなければ、抽象的なものでもなく、「習慣的なもの」として捉えられるようになる。種は、私たちの意志からまったく独立した一個の存在でもなく、私たちの思弁によって恣意的に構成されただけの虚構でもない。そうではなく、種は、或る一定の生活形式を共有する個体のグループにおいて形成された一つの習慣として現れる。この習慣は、それら個体間に共有された、いわば一つの「歴史」として形成され、維持され、発展させられる。〈習慣〉の歴史は、その歴史において私たちが帰属する種の形成過程を「内側から」理解させ、作られたものから作るものへと ― つまり、非人称的な自然の自発性から、個人において自覚される個性的な自発性が発現する意識へと ― 展開する歴史の流れの中に種を位置づけることを可能にする。
 かくして、私たちは、歴史的生命の論理に従いながら、整合的な仕方で、種の可塑性とそれに帰属する個体の創造性とを同時に認めることができるようになる。そこから、次のように言うことができるようになる。一方で、種は、それに帰属する各個体にその種に固有の生命活動形式を課すが、しかし、他方で、その各個体は、己に課された既存の生活形式を破り、世界の中に新しい生活形式を創造し、その形式を習慣として新たな規範を己に与えることによって、個性的な創造性を発揮する可能性を有っている。

 以上見てきたように、論文「生命」は、自らの限界を越えていく理論的可能性をその内に秘めていた。ところが、西田は、この論文を未完のままにして、論文「場所的論理と宗教的世界観」の完成に最後の哲学的努力を傾注する。この論文が完成されたのは、西田が死を迎える昭和二十年六月七日の約二ヶ月前のことであり、その後に論文「生命」を完成させるための時間は、西田にはもう残されていなかった。『善の研究』執筆時代以来「哲学の終結」と考えていた宗教の問題に最後の数ヶ月間を捧げることで、西田は、哲学者としての生涯を終えたのである。
 しかし、私たちは、本稿においては、この西田にとって哲学の終局的な問題である宗教の問題の手前に留まることにしよう。なぜなら、私たちが本稿において自らに課した課題は、西田がそこで立ち止まった限界を超えて、歴史的生命の論理を展開させる方途を見出すことだからである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十七)

2014-06-22 00:00:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(7)

 ラヴェッソンの哲学的方法が、昨日の記事で見たような意味で、「下降的」であると言うことができるとすれば、西田の哲学的方法は、「上昇的」であると言うことができると私たちは考えるが、それは、次のような意味においてである。行為的直観を人間存在の根本的実存形式とすることで、西田は、歴史的生命の世界における意識の起源を出発点として、行為的直観の発展を世界の自己形成過程として捉えているが、この自己形成過程は、私たちの身体的自己において経験される世界の自覚という高次元の自覚にまで高められていく。意識の起源に行為的直観を措定することによって、西田は、歴史的生命の世界という自己形成的な世界において進化する意識の可能性の条件を探究しているのである。世界において、どこで、どのような仕方で、意識は、それとして己を把握し、より包括的かつ明晰となり、世界を己において表現しつつ、その世界に対して制作的に働きかけうるようになるのか。私たちは、このように西田の哲学的な問いの一つを言い表すことができるだろう。

習慣として、我々の意識は、単なる空間の世界、物質の世界に残るのではなく、歴史的形成的世界の記憶の内に素質として残るのである(全集第十巻二九三頁)。

 習慣は、自己意識として己自らにそれとして現れることによって、次のことを私たちに教えてくれる。私たちの内には、ただ一つの形成能力があり、この能力は、物質的世界のメカニズムにも、身体性を欠いた精神の純粋な活動にも還元され得ない。この能力は、個人的な創造性、つまり、己が置かれた環境の形成原理として機能し得る己に固有な形を己自身に与えることによって、世界に新しい形を与える創造性にまで発展しうる「素質」(disposition)にほかならない。そこに見られるのは、自覚の高次化の過程であり、この過程は、私たちにとって初源の世界開示である行為的直観から始まって、世界の自覚にまで高められていく。この世界の自覚は、自己表現的世界の自己表現点あるいは創造的世界の創造的要素としての私たちの身体的自己において、それとして経験される。

 以上見てきたラヴェッソンの「下降的」方法と西田の「上昇的」方法とは、しかし、互いに他を排除し合うものではなく、まったく逆に、互いに相補的な関係にある。西田の歴史的生命の論理は、習慣の現象学とも見なすことができる習慣一般理論に、存在論的基礎を提供する。それに対して、ラヴェッソンによって「唯一の実在的方法」(« la seule méthode réelle », Ravaisson, op. cit., p. 139. 邦訳五〇頁)として自覚へともたらされた習慣は、環境世界から働きかけられ、環境世界へと働きかける自己形成的な私たちの身体によって担われた直接的統覚によって、歴史的生命の論理の発展過程を内的に認識することを私たちに可能にしている。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十六)

2014-06-21 00:00:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(6)

 習慣論に見られるラヴェッソンの哲学的方法は、自然の諸段階を、その最高次元である意識そのものから自然の最深部まで ― つまり「習慣の逓減運動の限界」(« la limite du mouvement de décroissance de l’habitude », Ravaisson, op. cit., p. 139. 邦訳五十頁)まで ― 連続的に下降しながら辿り直すことを可能にするものとして、しかも知性の光を失うことなしにそれを可能にするものとして、習慣を捉えているという意味において、「下降的」であると言うことができる。

同一の力が、一方では人格性に於ける高次の統一を少しも失はずにゐながら、自己を分割せずして多様化し、下落させずして低めつゝ、自ら多方面に分れて、諸々の傾向、動作、観念となり、時間に於て変形し空間に於て分散するのである。

C’est la même force qui, sans rien perdre, d’ailleurs, de son unité supérieure dans la personnalité, se multipliant sans se diviser, s’abaissant sans descendre, se résout elle-même, par plusieurs endroits, en ses tendances, ses actes, ses idées, se transforme dans le temps et se dissémine dans l’espace (ibid., p. 137-138).

 優れて類推的な方法としての習慣によって、世界全体の統一性を再構成・再体験することができるとラヴェッソンは考える。その考えに従えば、普遍的な方法として認められた習慣によって、私たちは、「初めが自然の深処に在り最後は意識の中に開花する一つの螺旋」(« une spirale dont l’origine se trouve dans les profondeurs de la nature et dont l’aboutissement est dans la conscience », ibid., p. 158. 邦訳七三頁)を再び下降することができる。「習慣は、この螺旋をば再び降り行き、それの発生と起源とを我等に教へる」(« C’est cette spirale que l’habitude redescend, et dont elle nous enseigne la génération et l’origine. », ibid. 同頁)。「人間に於ては、習慣の発展が、意識をば、間断なき低下を通じて、意志から本能へ、人格の完成せる統一から非人格性の極度の分散へと、導いて行く」(« le progrès de l’habitude conduit la conscience, par une dégradation non interrompue, de la volonté à l’instinct, et de l’unité accomplie de la personne à l’extrême diffusion de l’impersonnalité », ibid., p. 147. 邦訳五九頁)。 習慣は、自然の最深部から人間意識へという上昇過程を自覚的に逆方向に辿ることによって、「自然の最後の根柢と反省的自由の最高の点との間には、同一の力の発展の度を示す無限の段階がある」(«Entre le dernier fonds de la nature et le plus haut point de la liberté réflexive, il y a une infinité de degrés qui mesurent les développements d’une seule et même puissance », ibid., p. 158. 邦訳七三頁)ことを、私たち自身における経験を通じて教えてくれるのである。
 ここまで見てきたラヴェッソン独自の全体的自然観の特徴を、ドミニック・ジャニコー(Dominique JANICAUD, 1937-2002)は、現在までの最も優れたラヴェッソン研究であり、ラヴェッソンに関心を持つすべての人にとっての必読文献であるその著作 Ravaisson et la métaphysique. Une généalogie du spiritualisme français, Paris, Vrin, 2e éd., 1997 の中で、次のように見事にまとめている。

発展法則の統一性は、その適用分野がより連続的であればあるだけ、そこに見出される諸々の差異が質的な飛躍を要求するものではなく、唯一の尺度に従って段階づけることができるものであればあるだけ、その分一層良く確証される。ライプニッツ的な連続性の原理がラヴェッソンにおけるこの根本思想を下支えしている。つまり、ただ一つの筋立てしかないのであり、自然は、無限小の出力状態のうちに微睡む精神に他ならず、連鎖の見かけ上の切断は、感じとれないほど微細な推移を覆い隠しているのである。

L’unité de la loi de développement est d’autant mieux confirmée que son domaine d’application se révèle lui-même plus continu et que les différences qu’on y décèle n’exigent pas des sauts qualitatifs, mais peuvent se graduer suivant une unique mesure. Le principe leibnizien de continuité est sous-jacent à cette pensée fondamentale chez Ravaisson : il n’y a qu’une seule trame, la nature n’est que l’esprit enveloppé à l’état de puissance infinitésimale, les ruptures apparentes de la chaîne masquent les insensibles transitions (Dominique Janicaud, op. cit., p. 30).

 ラヴェッソン自身は、「世界に於ける生命の一般的発展」が、いわばフラクタルな階層構造になっており、最上位の最も複雑な構造が下位のすべての構造を縮約的に包含しているだけでなく、逆に、各階層に属する部分がその上位の階層の発展形式を「要約している」という双方向的に連続的な自然像を構築していると言うことができるだろう。

最後に、人類に於ける生命の最高の形式なる運動的活動が、従属的諸機能の中に展開される低次の形式のすべてを、縮図の形で包含している、といふばかりではない。これら機能の系列それ自身も、世界に於ける生命の一般的発展 ― 界から界へ、類から類へ、種から種へ、最後は存在の最も不完全な萌芽や最も単純な要素に至る発展 ― の要約に外ならないのである(邦訳五三頁)。

Enfin, non seulement la forme la plus relevée de la vie dans l’humanité, l’activité motrice, renferme en abrégé toutes les formes inférieures qui se développent dans les fonctions subordonnées ; mais la série de ces foncions n’est elle-même que le résumé du développement général de la vie dans le monde, de règne en règne, de genre en genre, d’espèce en espèce, jusqu’aux plus imparfaits rudiments et aux éléments les plus simples de l’existence (Ravaisson, op. cit., p. 146).