内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(二)

2014-03-22 00:00:00 | 哲学

1 — 真実在の定義から導かれる哲学の方法

 最後期の西田は、哲学固有の方法を「否定的自覚」「自覚的分析」と定義している。どのようにして自覚を哲学の方法として立てることができるのだろうか。なぜ否定的自覚なのであろうか。なぜ自覚的分析なのであろうか。これらの問いに答えるためには、まず、西田において、哲学的方法は、「真実在」の定義と不可分であることを思い起こす必要がある。前者は後者から導き出されるからである。しかし、哲学の方法がそれとして真実在の定義から導かれる過程が明瞭にたどれるほど充分にその導出の手続きが記述されている箇所は、西田のテクストの中には見当たらない。そこで西田によってなされた真実在の定義から西田による哲学の方法がいかに導き出されるか、私たち自身でその導出を試みてみよう。そのために私たちは西田による真実在の定義が凝縮された形で示されている「デカルト哲学について」の次の一節を用いることにする。

然らば真実在とは如何なるものであろうか。それは先ずそれ自身に於てあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。自己否定を他に竢たなければならない。何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。


1.1 それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの

 この一節に見られる真実在の一般的定義は、「それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの」とすることができるであろう。そこから西田の哲学的方法にとって基本的ないくつかの規則、西田の哲学的思考の進め方を統御している規則を引き出してみよう。
 直接にそして十全に真実在をそれとして捉えるためには、探求されているものに対して外的なすべての観点を排除しなければならない。外から知られうるものは、独立の存在ではありえない。なぜなら、それを知るものも、知られるということも、それには含まれていないからである。完全に独立していてかつ直接的に把握できるものは、それ自身の内部そのものにおいて探求されなくてはならない。この意味において、探すものと探されるものとは一つでなければならない。言い換えれば、真実在は直接的にそれ自身において感得されるものでなければならないのである。真実在を直接的に把握することを目的とする哲学的方法は、それゆえ、必然的に直観的なものである。このテーゼは、すでに初期の西田において、ベルクソンの哲学的方法論に事寄せて次のように表明されている。「実在を知るには、これを直観するの外はない。」